佐竹林之助(さたけりんのすけ:1884~1943)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤善八
弟子:
〔人物〕 明治17年頃、宮城県白石に生まれる。両親名および父の職業は不詳。明治31年ころより遠刈田新地の佐藤善八について木地を修業した。弟弟子に村上倉吉がいる。
師匠の善八は佐藤十松家に生まれた木地師で、重松、重吉、治平は善八の実姉よねと周右衛門の弟菊治との間の子供である。善八の娘たまよは佐藤丑蔵に嫁いだ。善八およびその子供の善助、善作も木地を挽いたが、早い時期に転業した。それ故、善八一家のこけしは残っていない。おそらく後年復活した林之助のこけしに近いものだったであろう。
明治37年現役兵として入隊、明治38年に除隊。その後、蔵王高湯に移り、岡崎長次郎の木地屋代助商店の職人を勤めた。
大正初年、山形市の田崎弥蔵の家具店に移り、岡崎栄治郎や海谷善蔵などとともに働いた。その後山形市の小橋町で独立開業したが、大正8年の米沢の大火による挽物の需要増大があり、小林吉太郎からの勧誘もあって米沢に移った。
米沢では木下機料店で撚糸用の木地製品を盛んに作った。大正14年ころに機料店店主木下源之助が亡くなったので、北寺町で独立した。
昭和初年の不況時代には一時木地から離れ、人力車の車夫などもした。
昭和15年に深沢要の訪問があり、これ以後少しづつこけしの製作も行った。
晩年は両親を米沢に引き取り面倒を見た。昭和18年4月に胃がんのため亡くなった、行年60歳。
〔作品〕 深沢要の依頼で製作したこけしは、完全な遠刈田系であり、佐藤善八の系譜のこけしを知る上で貴重なものとなった。善八は佐藤治平の叔父にあたる。同趣の作は西田記念館にもあり、同じ時の作が深沢要の手を経て西田峯吉のもとに入ったものであろう。
〔右より 20.6cm、12.8cm(昭和15年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
その後蒐集家の依頼で製作したものは、米沢という地を意識したためか、小林吉太郎を手本にしたものに変わっており、深沢要も遺稿集〈こけし手帖・46〉に、「佐竹林之助を再度訪問したとき、小林吉太郎に描いてもらったというこけしを手元に置いたりして、1年足らずの間に、彼のこけしが吉太郎の作品に良く似たものになっていたのには驚いた。」と書いている。下掲は表情が吉太郎風に変わった作品で、〈こけし辞典〉〈こけしの美〉でも紹介された。
昭和17年作になると完全に作並風に変わり、胴にも梅模様などを描いた。
〔系統〕 遠刈田系周治郎系列、後のものは作並系(山形系)の様式になった。