加納伝三郎

加納伝三郎(かのうでんざぶろう:1898~1940)

系統:山形系

師匠:佐藤賢治

弟子:

〔人物〕明治31年5月3日、宮城県仙台市の士族 加納伝之丞、とくの長男に生まれた。父伝之丞は仙台市北五番丁115に居を構え、工業学校で技術を教えていた。伝次郎、伝之助、正ハの弟と、花子、きく、きみ子の妹がいた。大正15年10月宮城郡根白石村朴沢の楠庄治の長女たつのと結婚し、精一郎、栄次、智子、三男、テル子の三男二女をもうけた。
伝三郎は大正初年頃から仙台の地木地師佐藤賢治について木地修業した。以後仙台で木地業を続けた。昭和10年代になると体調を崩して木地業を中断していたが、昭和14年頃仙台の蒐集家の要請によりこけしを作り初め、その年の暮れには100本ほど製作して桜井玩具店より二回に分けて頒布された。弟の正八や工場の職人庄子文治も同じ頃にこけしを製作していた。
昭和15年5月2日、仙台市北鍛冶町66で中風のため没した。行年43歳。繋の濃い整ったた風貌の人であったといわれる。長男精一郎は7歳で幼死したので、家業は次男栄次が継いだ。 父伝三郎は栄次12歳のとき亡くなったので、栄次は伝三郎の弟正八について木地を習得した。
伝三郎のこけし写真は〈木ぼこ〉(昭和15年)に掲載され、〈こけし襍記〉(昭和18年)に再掲された。

〔作品〕昭和14年ころに桜井玩具店の依頼でこけしを作り始めたが、そのこけしの系譜ははっきりしていない。伝三郎の師匠佐藤賢治は仙台の古い地木地師で主に横木を特異としていた。佐藤賢治自体も昭和10年代のこけしブーム期に依頼され作ったもので、伝三郎も賢治からのこけしの伝承はなかったであろう。
桜井玩具店などからの要請により、胞吉や高岡幸三郎、あるいは佐藤巳之助などのこけしを参考に作り始めたものであろう。


〔 29.7cm(昭和14年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

鹿間時夫は伝三郎のこけしについて「朴の本の八寸、六寸物にざんぐりと大ぶりの花を描き、前髪は横に長く高岡幸三郎のに似るが、両鬢は長く、表情素朴可憐、晩年の胞吉のような味があった。伝統的にも描彩技術でも定着していなかったのは、たぶん初作のためであろうが、一面初作のよさを待っていた。」と書いて一定の評価を与えていた。 

〔伝統〕独立系。〈こけし辞典〉では仙台一般型とした。
文献によっては遠刈田系、作並系等とされる場合もあるが、こけしの明確な伝承経路は判然としない。

〔参考〕

  • 平塚俊夫:加納伝三郎のこけし〈こけし手帖・657〉(平成27年10月)
[`evernote` not found]