佐藤周助

佐藤周助(さとうしゅうすけ:1873~1939)

系統:肘折系

師匠:佐藤栄四郎

弟子:佐藤巳之助/佐藤寅之助/古関福太郎/八鍬長吉/横山政五郎/相川忠次郎/中島正/佐藤文六

〔人物〕  明治6年12月27日、宮城県刈田郡宮村(遠刈田新地)の木地業佐藤栄四郎・志んの長男にうまれる。父栄四郎は刈田郡八宮(弥治郎)の出身、新山栄吉の四男である。栄吉は新山栄五郎の祖父でもあるから、栄五郎と周助は従兄弟にあたる。栄四郎は明治5年に遠刈田の佐藤周八の養子に入った。
周助は15歳より父栄四郎について二人挽きの木地を習得した。
明治23年4月から東京上野公園で開催された第3回内国勧業博覧会には、呼子独楽を刈田郡宮村(遠刈田)から出品している。


第3回内国勧業博覧会 宮城県より玩具、教育用具の出品

明治23年18歳で山形市へ出て職人として薄荷筒の製作に従事、21歳のとき徴兵検査のため一時帰郷したが身長不足で不合格となり、再び山形へもどって職人をした。一人挽きロクロを習得したのはこの山形時代ともいい、また遠刈田を出るときすでに習得していたともいう。年代を考えると、遠刈田に一人挽きが入ったのが明治18年であり、また山形に移る前に遠刈田の代表工人として内国勧業博覧会にも出品しているのであるから、遠刈田を出るときに一人挽は既に習得していたと考えるのが自然であろう。

明治28年、薄荷筒の需要が減少し、周助の働いていた山形の工場が閉鎖したので山形県最上郡大蔵村熊高の叔父、農具師矢口佐平のもとへ行き、職人として5年間働いた。ここでは木地だけでなく、鍛冶の仕事も相当やったという。大蔵村清水の佐藤カン三女イサと結婚したのはこのころと思われる。明治30年クマノ、明治33年テツエの二女が生まれる。肘折で周助の家を熊高木地屋と呼ぶのは熊高で働いていたからである。
明治33年、28歳とき、肘折の商店主尾形政治の勧誘により家族4人で肘折へ移り、尾形政治商店の下請として斎藤伊之助方の下屋に工場を作り盛んに木地を挽いた。熊高から来たので熊高木地と呼ばれていた。このときの弟子に古関福太郎、八鍬長吉らがいる。
明治35年に肘折で3ヵ月ほど尾形政治にやとわれて、小物類を挽いたことのある鈴木庸吉からの聞書きとして、〈蔵王東のきぼこ〉には「このころの周助は、なかなか変わり者で、ふだんも無口だったがなにかちょっとでも面白くないことがあると半日でも一日でも口をきかず、ねまり込んでだまって酒をチビリチビリやり出したら梃子でも動くものでなく、あるときは訪ねて行った庸吉に 『今日は天気が悪いなア』といったきり、こちらからなにをいってもウンともスンとも答えず……」と書かれている。翌36年に大沼新兵衛が周助に弟子入りしたが、〈こけし手帖・79〉によると、新兵衛も、「周助のそのころはいつも不機嫌で一日一言もしゃべらず、酒ばかりのんでいる日が多く、また狩猟や魚釣りに凝る日が多くなり、仕事のほうはあまり精を出さなかった」と聞き手の土橋慶三に語ったという。名人気質というか、気に入らないとなかなか仕事をしないという性格の結果として尾形政治商店からの店下がり、すなわちつけの借りが増大することになり、自然尾形と周助の間がうまくいかなくなった。そして伊之助の下屋の工場を追い出される形となって河原湯のそばの横山政五郎の隣家へ移った。明治35年(一説には34年)に肘折へきた佐藤文六が周助に代わって伊之助の下屋へ入り、工場の主任となった。この間のいきさつは、周助、文六という二人の名工がからんでいるだけに、 いろいろな推測がなされている。土橋慶三は、「名人気質の周助と実務肌の文六の対立」という構図を想定して、この経緯を解釈したが、実際には文六と周助はずっと行き来も続いていたようで、よく二人で仲良く酒を飲んでいたともいう。文六が肘折へ来たきっかけも、周助を頼ってのことであるといわれ、〈こけし手帖・40〉で西田峯吉は、「文六もおそらく周助の下で仕事をしたのだろうと想像する」と書いている。むしろ気ままな山菜取りや、趣味の魚釣りをして旅館に納めるといった仕事の方が周助の性に合っていたというべきだろう。 河原湯のそばへ移った周助は、山菜とりや魚釣りの合間に木地も挽いて生計をたてた。
明治36年に長男寅之助が、明治38年には次男巳之助が生まれたが、妻イサは早く亡くなったようである。
明治40年、横山政五郎相川忠次郎の二人を弟子にとった。当時の仕事は主に横山仁右衛門商店(横山仁吉が商店主)の下請であった。
その後大正9年より次男巳之助に木地を教え、また大正12年に開設された横山仁右衛門商店の横山木工場に参加して、ここで長男の寅之助および金山出身の中島正に木地を教えた。寅之助は農家に年期奉公に出て、徴兵検査で肘折に戻ってからの木地の修業であった。周助はその後間もなく工場を寅之助、正などにまかせて、自家でロクロを踏むようになった。また山仕事、魚取り、土方などさまざまな副業に頼って比較的自由に気ままな生活を送ったが、金銭的には恵まれず、昭和4年に仙台へ出た巳之助からも、晩年の6年間は仕送りを受けたと伝えられる。
昭和14年10月28日、肘折にて没。行年67歳。

〔作品〕  昭和46年7月刊の大阪こけし教室機関紙〈こけし山河・第10号〉で山中喜雄により肘折古こけし発見が報じられた。肘折の木地卸商「尾形政治商店」の縁の下から古い木箱が出てきて、そのなかからがらくたに混じって古いこけしが出てきたというのである。尾形では「捨てるのももったいない、何か役に立つかも知れない」とこけし工人の奥山喜代治のところへ木箱ごと運んできた。山中はそのこけしを喜代治から貰ってきたと言う。
下掲の写真が、〈こけし山河・第10号〉で報じられた山中喜雄の肘折古こけしである。

〔21.5cm(明治33年)(山中喜雄)〕
〔21.5cm(明治33年)(山中喜雄)〕

しかし、木箱に入っていたのは一本だけではなかったのである。その年の8月に橋本正明が肘折に行ってこのこけしの話を持ち出すと、奥山庫治が「まだあったかもしれない」と子供部屋に案内し、庫治の子供のおもちゃ箱を探すとこけし二本が出てきた。下掲写真の二本である。その後も愛知県犬山在の蒐集家宮田昭男他何人かが奥山喜代治・庫治父子からこの種の作を分けてもらったことが分り、尾形商店の床下の木箱から発見されたこけしは6~7本、木地玩具は10数点に及んだことが判明した。こけしの作者は橋本蔵の大が佐藤周助であることは明らかであるが、他は面描いろいろあって、その判定には諸説があった。山中蔵は周助の面描と異なるので柿崎藤五郎ではないかといわれたこともあった。しかし、筆致は皆同一であり、現在は全て周助の作と考えられている。
周助が尾形商店にいた時期は明治33年から明治35、6年に限られている。発見されたものの中に奥山運七を写したようなこけしもあることから、おそらく尾形政治に熊高から肘折に招かれて肘折の土産の玩具を作るにあたって、当時の肘折のこけし、すなわち柿崎藤五郎や奥山運七のこけしを写しながら、種々研究試作していた時期のものと思われる。山中蔵、橋本蔵は鳴子の形態に近い、運七が柿崎伝蔵から継承した形態を試みていたのであろう。
肘折型試作の時期であり、肘折に移った当初の明治33年の作と考えられる。

〔右より 10.8cm、19.2cm(明治33年)(橋本正明)〕
〔右より 10.8cm、19.2cm(明治33年)(橋本正明)〕

下の写真は橋本蔵、山中蔵の頭部であるが、様式が異なっており、工夫途上であることが分る。

尾形政治商店で発見されたこけしの頭部 左 橋本蔵  右 山中蔵
尾形政治商店で発見されたこけしの頭部
左 橋本蔵  右 山中蔵

尾形商店の木箱から見つかった木地玩具
尾形商店の木箱から見つかった木地玩具(写真はその一部)

なお蒐集家が活躍する以前の周助のこけしはもう一本ある。深沢コレクション中の黒くなったこけしである。おそらく東北の女学校の校長達に手紙を送って、生徒が子ども時代に遊んでいらなくなったものを集めた石井眞之助経由で深沢要の手に収まったものであろう。顔の描彩、胴の菊模様はかすかに残っており周助作であることがわかる。

〔30.3cm(大正初期)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔30.3cm(大正初期)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

佐藤周助がこけし作者として紹介されたのは〈こけし這子の話〉による。昭和2年5月に三原良吉が残雪残る肘折を訪れ、周助から手に入れたというこけしを掲載している。ただし、そのこけしは弟子の中島正のものであったようだ。
〈日本郷土玩具・東の部〉でようやく佐藤周助自身の作品(下掲写真の右の作)が掲載された。

右より 肘折(佐藤周助) 同(横山仁吉)  〈日本郷土玩具・東の部〉
右より 肘折(佐藤周助) 同(横山仁吉名義)  〈日本郷土玩具・東の部〉

下掲の二本、久松保夫旧蔵、鈴木鼓堂旧蔵はいづれも黒頭で昭和3年ころの作である。表情も安定していて完成度も高く、周助の円熟期の作品と言える。
久松旧蔵品は大頭で中を刳りぬいてあり、ブリキ片かスズ玉が入っていて振ると音がする様に作られている。

〔30.3cm(昭和3年ころ)(久松保夫旧蔵)〕
〔30.3cm(昭和3年ころ)(久松保夫旧蔵)〕

〔24.0cm(昭和3年ころ)(鈴木鼓堂旧蔵)〕
〔24.0cm(昭和3年ころ)(鈴木鼓堂旧蔵)〕

昭和2~5年ころの作品は天江富弥、武井武雄の時代に集めた蒐集家の手元にはかなり集まっている。
また昭和4年から大阪で始まった八つ手会は胞吉や久四郎の頒布で知られるが、昭和7年に周助の頒布も行ったので関西にはその時期の作が有る程度残った。

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〔25.5cm(昭和5年ころ)(西田記念館)〕 西田峯吉コレクション

深沢要の蒐集年代は周助を集めるにはぎりぎりの時期であるが、それでも深沢コレクションには下に掲げる4本の周助がある。

 〔右より 14.5cm、21.8cm(昭和8年ころ)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔右より 14.5cm、21.8cm(昭和8年ころ)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

下に示す黒頭に特異な口を描くこけしは昭和型あるいは現代型と呼ばれる意匠。周助以外には見られない独特の型である。この型は周助の比較的後期に作られた。

〔右より 40.9cm、31.5cm(昭和10年ころ)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔右より 40.9cm、31.5cm(昭和10年ころ)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

土橋慶三は周助の作品について「彼の造詣の美しさと油絵のような鮮明な色調感と異様な目の輝きが、かつてのパトロンであった尾形政治と衝突し、苦境に立たされた当時の対抗意識と憎悪の焔の産物であった。」と評したが、鹿間時夫はこの土橋慶三の言説を踏まえながら「腕に覚えのあるプライドの高い工人が、逆境で作ったこけしは平和な心境のものではない。精一杯自分を主張する最後のよりどころであったろう。強烈で異様に輝くこのこけし(黒頭の久松旧蔵)には人間周助の魂のうめきが宿るのであろう。〈こけし鑑賞〉」と書いた。昭和40年代は、工人の境涯と心境に、作品を重ねて鑑賞するというのが流行であった。
しかし、今改めて眺めると黒頭の久松旧蔵の周助にしても、むしろ静謐で涼やかに安定してさえいるように見える。とすると、鑑賞者は実は鑑賞者自身の境涯と心境に、作品を重ねて見ているのかもしれない。
6~8寸くらいのものには、むしろ童女のようにあどけない表情のこけしも多い。
久松保夫は声優としてテレビのララミー牧場のジェス・ハーパー役(ロバート・フラー)の声を担当していたが、ロバート・フラーが来日して久松コレクションを訪れた際に、「これが欲しい」と言ったのは佐藤周助のこけしだったという。

系統〕 肘折系 血縁的には弥治郎と遠刈田、木地の修業は遠刈田、そして肘折で鳴子の要素も加味してこけしを作った。多くの要素の混血が複雑で内容の濃い作品を生み出したのである。
周助の型は、息子の巳之助、孫の重之助、昭一、昭一の弟子吉野誠二らが継承している。

〔参考〕

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