中島正

中島正(なかじまただし:1907~1985)

系統:肘折系

師匠:佐藤周助/佐藤巳之助

弟子:

〔人物〕 明治40年10月11日、秋田県仙北郡に生まれる。幼時に両親と死別し、13歳の頃、最上郡金山に勤務する夫に嫁入りした姉を訪ねて肘折に移り、料理屋いせやに引き取られた。一時茨城県磯原に住んだが、大正10年15歳のとき肘折に戻り、佐藤周助の弟子となって木地を習得したが、周助の次男巳之助からも指導を受けたという。2年後の大正12年に肘折の横山仁右衛門商店によって開設された横山木工場に、師匠周助や已之助と共に入って職人となった。製品は主に茶托・盆などであった。昭和になると不況になり、昭和4年12月に佐藤巳之助は肘折を去り、遠刈田を経て仙台に移った。横山木工場もついに昭和5年ころに閉鎖されたが、中島正はそのあとも暫く肘折で木地を挽き続けた。昭和9年になって肘折を出ると、福島県石堀郡内郷村(現、いわき市)小島へ移り、平市の丸木家具工業(丸本家具店とする説もある)に勤めた。昭和14年には佐藤誠が平市佃町に新築した佐藤木工所へ移った。この木工所には佐野憲一、高橋詣治、猪狩庄平がいた。その工場は昭和20年8月に米軍の空襲により焼けて、会社も間もなく解散となった。
その後、佐藤誠と共に会津若松に移って半年、さらに郡山で3ヵ月働いてから内郷へ戻った。間もなく誠が飯坂で独立したのでそこで4ヵ月、白石の工芸指導所に2年、仙台の指導所に1年いて内郷へ戻った。その後、小田原、名古屋、前橋、札幌、川越、鳴子などの指導所を10ヵ月ほどまわり、昭和28年ころから平市佃町の平木工産業㈱に勤めた。
昭和35年に蒐集家の阿久津経之によって見出され、戦後のこけし製作を本格的に再開した。それまで長らく行方不明となっていた理由は、昭和15年ころ一郎と改名したためらしい。それもみずから改名したのではなく、秋田の本籍地の役場が焼けて戸籍を作り直したときに間違えられ、籍を平に移してわかったといった状況だったようだ。
昭和43年ころ脳溢血で倒れ、以後こけしの製作は中止した。昭和60年3月25日没、行年79歳。
息子の賢一も木地を挽いたようであるが、こけしは作っていないと思われる。

中島正 昭和7年 肘折時代 撮影:橘文策

中島正

中島正

中島正 昭和35年 撮影:露木昶

〔作品〕 〈こけし這子の話〉第7図の肘折3本のうち右端は、三原良吉が昭和2年5月肘折を訪れて佐藤周助から直接入手したものと言われているが、胴の菊花の描法などから中島正の作と思われる。

〈こけし這子の話〉第7図 右端:中島正作と思われる
〈こけし這子の話〉第7図 右端:中島正作と思われる

下掲の写真は〈日本郷土玩具・東の部〉に掲載されたもの、左端は横山仁吉として掲出されている。このこけしは、佐藤巳之助あるいは中島正の製作によるものと思われる。横山仁右衛門商店への注文に対して横山木工所で働いていた職人の作を商店主横山仁吉の名前で蒐集家に送っていたのであろう。〈日本郷土玩具・東の部〉の写真は不鮮明であるが、面描は周助に倣い、胴模様は周助スタイルの菊を単純大振りに独特の彎曲で描いている。

右より 肘折(佐藤周助) 同(横山仁吉)  〈日本郷土玩具・東の部〉
「右より 肘折(佐藤周助) 同(横山仁吉)」 〈日本郷土玩具・東の部〉

中島正名義で写真紹介したのは橘文策の〈こけしと作者〉である。下掲の石井眞之助旧蔵のこけし写真を載せて「年若くして張りのある簡素な菊を描いて、周助に劣らぬ尤物を物してゐた」と書いた。

〔30.0cm(昭和初年)(箕輪新一)〕 石井眞之助旧蔵
〔30.0cm(昭和初年)(箕輪新一)〕 石井眞之助旧蔵

下掲左端の目黒一三蔵は〈こけしと作者〉の作とほぼ同時期、昭和4年頃の作と思われる。花軸がまっすぐに描き下されるところが、周助の筆とは違っている。

〔右より 18.4cm(昭和6年ころ)(森川桂一)、24.5cm(昭和4年)(目黒一三)〕 肘折時代
〔右より 18.4cm(昭和6年ころ)(森川桂一)、24.5cm(昭和4年ころ)(目黒一三)〕 肘折時代

〔右より 24.8m(昭和5年ころ)、18.8cm(昭和6年ころ)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔右より 24.8m(昭和5年ころ)、18.8cm(昭和6年ころ)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

森川桂一蔵18.4cmと上掲の深沢コレクション18.8cmはほぼ同時期のもの。〈古計志加々美〉にもほぼ同時期の作があり、「溌剌たる作風」と評している。
深沢コレクション24.8cmは、目黒一三蔵の24.5cmと丁度中間期の昭和5年頃の作である。
肘折時代のこけしは前髪の幅が初期のものほど狭く小さい。下掲の尺は昭和7年ころの作、前髪の幅はかなり広くなっている。切れ長の大振りな眼を描き、フォルムは全体細身でシャープである。

〔30.3cm(昭和7年ころ)(橋本正明)〕
〔30.3cm(昭和7年ころ)(橋本正明)〕

下掲は肘折時代の最後の頃の作。左2本は西洋人形のような大きな眼点を描いている。当初温泉客に歓迎されるだろうと佐藤巳之助が作り始めたものらしいが、中島正も作る様になった。

〔右より 36.7cm(昭和8年ころ)(植木昭夫)、24.4cm(昭和8年ころ)(植木昭夫)、36,4cm(昭和8年ころ)(鈴木康郎) 米浪庄弌旧蔵〕
〔右より 36.7cm(昭和8年ころ)(植木昭夫)、24.4cm(昭和8年ころ)(植木昭夫)、36,4cm(昭和8年ころ)(鈴木康郎) 米浪庄弌旧蔵〕

昭和9年に肘折を離れ、また名前が中島一郎となったこともあり、長い間蒐集界とは接触がなかった。ただ折に触れこけしの製作は行ったようであり、高久田脩司の蒐集品には昭和16年ころの内郷時代の作例がある。上に掲げた植木昭夫蔵のように抜け首の作品である。
戦後においても、下掲左端のように昭和28年作の記入のあるものも残っている。
右端の植木昭夫蔵は阿久津経之により見出され蒐集家向けの製作を始めた時期のものである。

〔右より 24.4cm(昭和32年ころ)(植木昭夫)、17.5cm(昭和28年2月)(森川桂一)〕
〔右より 24.4cm(昭和35年ころ)(植木昭夫)、17.5cm(昭和28年2月)(森川桂一)〕

周助の弟子として肘折時代の評価は非常に高く、将来も嘱望されていたが、福島に移ってからは蒐集界と疎遠になり、第一次こけしブームのころは製作数も限られていた。見るべき作は肘折時代のものに多い。

系統〕 肘折系

〔参考〕

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