昭和46年7月刊の〈こけし山河・第10号〉(大阪こけし教室刊)に山中喜雄の「肘折の古こけし」という記事が掲載され、その衝撃がこけし界を走った。それは肘折の尾形政治の商店を解体した時に、その床下からごく古いこけしが発見されたことを報じるもので、その写真も掲載され、それが今まで見たことのない作風のこけしだったからである。
この山中報告に刺激を受けて、数人の蒐集家が肘折を訪問、奥山喜代治方に運ばれていたその発見品をそれぞれ分けてもらって来たのであった。こけしはおおむね佐藤周助の作、ただ周助が明治33年に遠刈田から肘折に行って、こけしを作り始めるころの試作品であり、肘折の土地風のものを作ろうとして柿崎藤五郎や奥山運七の作風などを試みたものだろうと言われている。
しかし発見品はこけしだけではなかった。当時、愛知県犬山にいた蒐集家宮田昭男が肘折を訪問した時には、こけしの他にかなりまとまった木地玩具一式を入手してきた。これらも尾形の床下から出たものであるが、作者ははっきりしていない。ただ形態・描彩等から佐藤周助、佐藤文六、佐藤丑蔵あるいはその弟子等がかかわったもので、製作時期は明治33年以降〜明治後期と思われる。
明治期の木地玩具がまとまって残っていたということは奇跡的であり、小物・玩具の研究においても大きな意味のある出来事であった。
写真はいづれも宮田昭男旧蔵の尾形よりの発見品
なお、古肘折木地玩具の発見はこれだけではなかった。神田の古書肆「ひやね」は、こけしも扱っており、こけしの同好の士が毎月第一金曜日に「ひやね」につどう「一金会」という集まりがある。その旅行会が毎年行われていたが、平成9年には肘折に出かけた。
その折、斎藤伊之助旧宅より、尾形商店で発見された木地玩具とほぼ同趣の木地玩具が出てきた。部分部分がバラバラで出てきたものもあった。部分だけのものは鈴木征一が補って完品にした。
斎藤伊之助の家から出たとは言え、必ずしも伊之助が作ったものと断定はできない。明治年間、尾形政治商店の工場は斎藤伊之助宅の下屋を借りて操業していたのであり、そこで製品を作っていたのは周助や文六、丑蔵であった。尾形木工所として独自の工場を開設したのは大正4年になってからである。
従って、この斎藤伊之助宅で発見された木地玩具も、おそらく尾形商店床下から見つけられたものと、ほぼ同作者陣によって、あまり違わぬ時期に作られたものであろう。すなわち、製作した工場と、それを商った商店の両方から、これらの玩具は発見されたことになる。
この時期の玩具として、達磨、達磨車、人形車(木地車)、大砲の四つ車、入れ子の七福神、あるいは三福人、樽引きなどが肘折で作られていたことがわかる。