小林善作(こばやしぜんさく:1909~1970)
系統:肘折系
師匠:佐藤丑蔵
弟子:
〔人物〕 明治42年12月3日、岩手県和賀郡沢内村前郷の農業内記林作・ミキの三男に生まれた。大正13年尋常高等小学校を卒業後、自宅で農業に従事した。昭和5年12月より同7年5月まで、東京近衛歩兵隊入隊、帰郷後再び農業を続けた。
昭和9年岩手県和賀郡湯田町の小林辻右衛門の娘愛と結婚、婿養子となった。辻右衛門は大正10年に県の補助を受けて木地講習会を開き、遠刈田の佐藤丑蔵を講師として招いていたが、引き続き木地工場を開設して、佐藤丑蔵をこの工場の指導員とした。善作は昭和10年よりこの木地工場に入り、佐藤丑蔵の指導の下で木地の技術を学んだ。この工場では、高橋市太郎、菅原宗次、小林英一なども木地の技術を習得した。
昭和14年、橘文策の〈木形子・8〉でこけし作者として紹介された。
昭和16年8月に応召して渡満、同18年に帰郷したが、同20年に再び応召して、東京王子で終戦を迎えた。
戦後は山仕事のかたわら足踏ロクロで木地挽きを続け、玩具とこけしを少しずつ作っていたが、昭和33年より本格的に製作を開始した。二男信行や三男昭三は善作から描彩の手ほどきを受け、若干こけしを作っている。性格は穏やか、口数は少ないが実直な人柄であった。
なお、長男章作は明治大学法学部を出て警視庁に入庁、刑事部参事官まで務めた。二男信行は立教大学文学部を出て進学校である豊島岡女子学園の英語教師を務めた。三男昭三は早稲田大学政経学部を出て岩手日報社に勤めた。善作は子供の教育に熱意を持ってもいた。
昭和45年1月脳溢血で倒れ、同年10月20日湯田湯本にて没した、行年62歳。
〔作品〕 こけしは丑蔵からの伝承であるが、戦前の善作名義のこけしの描彩については諸説がある。
例えば下掲の中屋惣舜旧蔵3本について、〈こけし辞典〉では右端を丑蔵の描彩か、中央を小林英一あるいは善作の描彩か、そして左端を小林善作本人の描彩としている。右端について、面描は丑蔵にしてはやや硬い感があるが、胴の模様は丑蔵であろう。
〔右より 24.3cm(昭和10年)、24.0cm(昭和14年)、15.0cm(昭和16年)(中屋惣舜旧蔵)〕
下掲の戦前作についても上掲と同様の議論がある。左端の胴は丑蔵であろう。
〔右より 32.5cm(昭和15年)(河野武寛)、24.8cm(昭和13年)鈴木康郎 米浪庄弌旧蔵、19.3cm(昭和10年)(橋本永興)〕
下掲の深沢コレクションについては、右端の面描は英一か善作、左端の面描は丑蔵か善作、そして胴はいづれも善作であろう。
〔右より 15.5cm(昭和14年頃)、9.4cm(昭和14年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
下の2本は、中屋惣舜旧蔵(上掲)右端と同時代の作を元に戦後小林善作本人が復元したもの、それぞれ東京こけし友の会の例会頒布品である。右端が最初で表情はこちらのほうが戦前作の面影を再現できている。
〔右より 25.0cm(昭和42年2月)、25.0cm(昭和42年5月)(橋本正明)〕 東京こけし友の会頒布
昭和42、3年ころは多くの蒐集家が、湯田の古作を持参して、小林善作や小林定雄に見せていたので、戦前風の佳作が種々再現された。下の写真は、小寸物におけるそうした再現の一例である。
〔右より 12.2cm、15.6cm、15.る6cm、15.6cm(昭和42年7月)、18.9cm(昭和43年3月)(橋本正明)〕
下掲の3本も、その時期に小林英一のこけしを復元したもの。特に右2本は、英一の雰囲気をよく表現できている。この頃は、他に小林辻右衛門型、高橋市太郎型なども製作した。
〔右より 19.6cm、25.5cm(昭和43年3月)、24.8cm(昭和44年1月)(橋本正明)〕
こうした伝統的なこけしのほかに頭に大きな髷をいだいた「およねこけし」も作った。これは湯田地方の沢内甚句「沢内三千石 お米のでどこ 桝で量らねで箕で量る」で謡われたおよねに因んだこけしだという。歌詞には不作の年に米の代わりに娘のおよねの身(箕)を殿様に差し出したという意味が隠されている。
〔系統〕 肘折系文六系列
〔参考〕