佐藤伝伍

佐藤伝伍(さとうでんご:1912~1945)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤伝/佐藤伝喜

弟子:

〔人物〕 明治45年3月28日宮城県刈田郡福岡村大字八宮字弥治郎の木地師佐藤伝内・てうの四男に生まれる。戸籍表記は「傳伍」である。母てうは刈田郡宮村我妻惣治郎の長女である。伝伍には、異母兄に伝吉がおり、てうの子として次男伝、三男伝喜、弟に五男敏、六男栄、七男新、八男雪弥の兄弟がいた。女の兄弟も三人ほどいた。五男敏は二歳で亡くなっている。父伝内は大正中頃から殆ど家に定住せず諸国を流浪していたので、伝伍は福岡村高等小学校を卒業した昭和2年より、兄の伝、伝喜について木地を学んだ。こけしも盛んに作ったという。兄の伝は昭和初年頃に、伝喜は昭和7年に弥治郎を離れたが、伝伍も伝喜について昭和7年弥治郎を離れ、一時鎌先の佐藤雅雄の作業所で働き、さらに昭和8年伝喜が先に行って働いていた米沢の西須木工所に入って職人となった。ここでは主に撚糸関係の木地製品を作ったという。
昭和10年より兄の伝が働いている北海道弟子屈温泉へ移り、こけしも盛んに作ったので、伝名義のこけしの中に、往々にして伝伍の作品の混じることがあった。
昭和12年春、兄伝喜も働いていた白布高湯の佐藤慶治の作業場に移って木地を挽いたが、昭和13年10月には伝喜とともに南羽鉱山に行って働いた。
昭和14年群馬県吾妻郡新鹿沢温泉に移り、自分の作業所を開いて木地を挽いた。新鹿沢時代にも多くのこけしを作った。
昭和18年頃に応召出征、昭和20年3月20日戦死した。 行年34歳。

〔作品〕 弥治郎時代、弟子屈時代、白布高湯時代、新鹿沢時代のこけしが残っている。
〈古計志加々美〉は4本の伝伍を掲載し、弥治郎時代、白布高湯時代の作例を掲げている。〈古計志加々美〉は弥治郎時代の作は時に伝喜と混同されていること、弥治郎時代と弟子屈時代はほとんど変化していないこと、白布高湯に移って佐藤慶治の影響を受け、形態に量感を増し、色彩も派手になったことなどを指摘している。

下に写真で示した鈴木康郎蔵の尺余の2本は、典型的な弥治郎時代の作風、ただ左端は鎌先の作とあるので佐藤雅雄の作業所で製作したものかもしれない。

〔右より 32.7cm、31.7cm(昭和6年頃)(鈴木康郎)〕 弥治郎時代
〔右より 32.7cm(昭和6年頃)、31.7cm(昭和7年頃)(鈴木康郎)〕 弥治郎時代

下図の小寸作り付け3本のうち、右2本は白布高湯時代、右端は新鹿沢時代である。新鹿沢に移ってから眼が大きく描かれる様に変わったが、これは蔦作蔵のこけしの影響といわれている。

〔右より 18.5cm、13.8cm(昭和12年) 白布高湯時代、15.3cm(昭和14年頃)新鹿沢時代(鈴木康郎)〕
〔右より 18.5cm、13.8cm(昭和12年) 白布高湯時代、15.3cm(昭和14年頃)新鹿沢時代(鈴木康郎)〕

弥治郎栄治家の直系に生まれ、いかにも弥治郎らしい童心溢れるこけしを作っていたが、若くして戦死したのは惜しまれる。

系統〕 弥治郎系栄治系列

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