大野栄治

大野栄治(おおのえいじ:1904~1981)

系統:弥治郎系

師匠:小倉嘉三郎

弟子:大野定良/山滝義夫

〔人物〕  明治37年2月10日、宮城県刈田郡八宮78番地(梨ノ木沢)に生まる。父は馬夫を業としていた。大正8年16歳で弥治郎の小倉嘉三郎に弟子入りした。嘉三郎の妻けさよ(日下倉吉七女)は叔母にあたる。当時嘉三郎は農業主体であまり木地は挽かず、兄弟子の佐藤誠より木地を習ったが、こけしを挽いたのは大正8年の修業当初の頃からである。大正11年、現役兵として仙台第19連隊へ入隊、同13年除隊後弥治郎へもどり木地を再開した。
大正14年嘉三郎の長女はつと結婚、このころにはこけしを多数作り、精緻で丁寧な仕事だったので弥治郎の中では一番人気の高い工人であった。独特の梅こけしは栄治の創作らしく、一説には同時期に木地についていた春二、左内と共に相談して、左内は松、春二は竹、栄治は梅を描くように決めたともいわれる。ただし、これは俗説であるという意見も多い。
昭和3年に〈こけし這子の話〉に紹介されたものは嘉三郎名儀であったが、明らかに栄治の作であった。武井武雄の〈こけし通信〉によれば嘉三郎名儀の注文に対して、栄治や誠が代作したものがかなりあったらしい。
この頃から独立を考え、会津など候補地を探していたが、たまたま弥治郎出身の佐藤某から北海道が有望と誘われ、意を決して昭和4年6月、妻と二人の子供を連れて北海道へ移住した。最初の落ち着き先は川上郡弟子屈町屈斜路ポントで、空き家になっていた山形屋という旅館を修理して落ち着いた。煙草入れや花瓶等の木地物を挽いた。昭和4年10月には弥治郎から佐藤伝が来て、翌5年4月まで職人として働いた。
昭和6年6月釧路国川上郡川湯温泉へ移り、木地を続けた。同年橘文策の訪問があり、翌7年〈こけし研究・6〉に正式紹介され、こけしも多数作るようになった。その後マテで精密な描彩のため、割合寡作であったので、戦前は斎藤大治郎と共に収集家の人気が高かった。昭和16年ころより休業し、戦後昭和26年、蒐集家鳥居敬一等の努力で復活した。
以後少しずつ作り続けていたが、昭和44年より飲食店を経営、転業した。こけし製作は昭和46年夏ころが最後である。昭和54年4月に肺気腫にかかって入院し、弟子屈町の国立病院で治療に努めたが、やがて喘息を併発し、 昭和56年7月22日に没した、行年78歳。


〔右:大野栄治 左:大野定良 撮影:森田丈三

 
大野栄治夫妻 昭和46年7月 撮影:西一郎

大野栄治夫妻 昭和48年5月 撮影:木島脩悟
大野栄治・はつ夫妻 昭和48年5月 撮影:木島脩悟

〔作品〕 弥治郎時代のものは少数しか残っていない。いずれも小倉嘉三郎名義で蒐集家の手に渡ったが、佳作が多い。〈こけし這子の話〉〈古計志加々美〉の316番、〈こけし鑑賞〉等に紹介されれものは弥治郎時代の作と思われる。この期の特徴は大寸物でも髪飾りが放射状に描かれているものが多く、枝梅のものは少ない。また前額部の三つの蒲鉾状の飾りの両端に梅花を描いたものが多い。

〔 25.8cm (大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション 〈こけし這子の話〉掲載
〔 25.8cm (大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション 〈こけし這子の話〉で嘉三郎名義で紹介された

〔右より 17.5cm(昭和7年頃)川湯時代、21.1cm(昭和3年頃)弥治郎時代(鈴木康郎)〕
〔右より 17.5cm(昭和7年頃)川湯時代、21.1cm(昭和3年頃)弥治郎時代(鈴木康郎)〕

上掲左端の梅花は弥治郎時代の特徴である線状の花蘂となっている。

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弥治郎時代の梅の花芯は放射線状に中央で接した黒線で描くのに対し、川湯時代の花芯は中央に赤あるいは黒で点を打ち、その点から離れた短い線で描かれるという。

下掲は川湯時代初期の作で、加賀山昇次旧蔵品であるが、胴下段に描かれたすずらん模様は珍しい。

 〔 25.0cm(昭和8年)(河野武寛)〕 加賀山昇次旧蔵
〔 25.0cm(昭和8年)(河野武寛)〕 川湯時代 加賀山昇次旧蔵

形態的には胴裾の広がり方が初期、特に弥治郎時代のものほど大きいようである。比較的目が大きく秀麗で理知的な女性を示す。面描は硬筆できっちりと描かれている。そのため甘い情味を有しながら、その表情には媚びるところがない。胴模様の巻絵も梅花も細かく繊細で、師匠嘉三郎のおおらかな梅花とは正反対である。洗練された精巧さを評価されて戦前は嘉三郎より栄治の人気のほうが高かった。
戦後も製作を続けたが、特に昭和20年代の作は下掲のように、形態も美しくまとめられ、表情にも気品があって魅力あるこけしであった。

〔 16.1cm(昭和28年)(鈴木康郎)〕 
〔 16.1cm(昭和28年)(鈴木康郎)〕

大野栄治の年代鑑別法については〈こけし手帖・78〉に北村勝史による詳述がある。

大野栄治、はつの長男定良は、昭和28年ころ一時的にこけしを作ったが、間もなく作らなくなった。栄治の兄弟子であった佐藤誠の次男誠孝やその長男英之、二男祐介などが大野栄治型を継承している。嘉三郎の姪(高橋精助の三女)の清水たかよも栄治型を作っていた。

系統〕  弥治郎系嘉吉系列

〔参考〕

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