佐藤勘内

佐藤勘内(さとうかんない:1883~1939)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤栄治

弟子:佐藤雅雄/小原軍吉/ 蔦作蔵/鎌田文市/高梨小藤治/高野辰治郎

〔人物〕  明治16年12月22日、宮城県刈田郡福岡村大字八宮字弥治郎の農業木地業佐藤栄治、ふよの二男として生まれた。伝内の弟、五月の兄に当たる。祖父東吉、父栄治ゆずりの下屋敷は、弥治郎で一番の財産家で、田畑4、5町歩山林20余町歩に及んだ。父について木地を修業、白石の高等小学校卒業後は農業と木地業に専従、小物を挽いて、仕事は早かったがやや荒かったという。
徴兵入隊、除隊後、明治36年白石町鷹巣の高子ふよと結婚、雅雄、次雄、稔の三男をもうけた。〈蔵王東のきぼこ〉〈こけし辞典〉ではこの妻女の名前をうめのとしているのは勘内の家で通称うめのとされていたからである。姑(伝内・勘内の母)の名もふよであるから家族間ではうめのと呼ばれたのであろう。
結婚と同時に、田畑7町歩、山林5町歩のほか渡辺幸六(幸九郎の父)より買った上屋敷の家を譲られた。ふよ(うめの)の従弟である蔦作蔵がこのころ弟子となった。きぼこの面描のような紬かく面倒くさい物は作蔵に作らせ、自分は鳴りごま、菓子容れ、箆(たばこ)容れ、茶盆等を挽いた。作蔵が一人前になるころには木地挽きは作蔵にまかせ自分は弥治郎村や鎌先の顔役として活躍するようになった。弥治郎の勘内として飛ぶ鳥も落とす勢いであったという。道楽は若い頃より達者であったが、このころから白石の茶屋通いはますます盛んになり、親ゆずりの財産は減る一方となった。
大正2年旧2月蔦作蔵は独立して山形県小野川に去った。
勘内は、全財産を抵当に入れ、また親からも金を借り、本家の下に水車利用の傘ロクロ工場を建て三人の職人に挽かせた。鎌先の一条旅館の座敷を借り家族と共に移 り住み温泉土産の木地を挽いたりした。大正6、7年宮城県の補助金により鎌先で木地講習会だ開催されたとき、傘ロクロエ場内に木地挽ロクロを据え、鎌田文市、雅雄、高梨小藤治(大網の木地職人:文献には寿治として紹介されたこともあったが小藤治が正しい)、小原軍吉(下原)、高野辰治郎(白石)等10名の弟子を養成した。文市、雅雄以外木地を踏襲した者はいない。
大正8年には傘ロクロを売却し、女を伴って福島県浪江に逃げたが、3年後浴衣一枚で鎌先に帰ってきた。
大正13、4年ころ鎌先に水車工場を移し建て直した。長男雅雄と職人の鎌田文市が働いたが、勘内自身も近くの安禅寺の柄杓作りや横川の高橋菊太郎の二人挽きの鉋取りをやったり、また収集家用のきぼこを作るようになった。今日収集家の 開に残っているこけしの大部分はこのころのものである。
昭和8年夏、息子や後妻とうまくゆかず、店を閉めて東京深川の娘の嫁先に身を寄せ、まむし飴の販売等をした。一時軽い中風を患って帰郷、1年間静養後よくなると、きぼこを作り収集家に送った。昭和12年夏上京、14年秋に無性に故郷が恋しくなって再び帰郷、白石本町の青木という親戚の家に身をよせ、マダの皮を東京に出していた。また、鎌田文市のところで10数本、鎌先の雅雄のロクロで10数本と、計30本ほどのこけしを作った。11月下旬に胃病にかかり、雅雄が無理やり鎌先の家に連れ帰って看病したが、昭和14年12月26日没した。57歳。
鹿間時夫は「性質快活陽性で人の世話をよくし、順調にいっているときは、まことに快調であったが、多年道楽散財のすえ、転々と生活の本拠を変えた晩年は、人生の裏目に会って孤影悄然としたところがあった。しかし彼は対人関係で暗い道にはいなかったし、多くの人から好かれていた風がある。〈こけし辞典〉」と書いている。
菅野新一著〈蔵王東のこぼこ〉には、佐藤伝内・勘内兄弟の生き生きとした伝記が載せられている。

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佐藤勘内

勘内
佐藤勘内  撮影:橘文策

〔作品〕  下の写真の8寸は天江富弥旧蔵で大正10年に入手したもの。勘内は大正8年に鎌先を出奔して、戻ってきたのは11年であるから、このこけしはおそらく大正8年以前の製作になるものであろう。胴上端が極度に細くなっているのが特徴的である。
大正期の鎌田文市や佐藤伝喜にもこのように胴上端の細くくびれた作があり、弥治郎の古い形態のひとつであったと思われる。

〔24.5cm(大正10年)(高橋五郎)〕 天江コレクション〈こけし這子の話〉掲載
〔24.5cm(大正中期)(高橋五郎)〕 天江コレクション〈こけし這子の話〉掲載

下の写真の中央の尺3寸は、昭和45年2月備後屋入札会に出たこけしで小山信雄が落札した。佐藤伝喜はこのこけしを見て、「昭和2年ころ、正月に5本勘内が注文を受け、勘内はこのとき7本作ったが、その時の1本である。」と語ったそうである。天江コレクションの尺4寸3分(〈図譜『こけし這子』の世界〉図版19)も昭和2年入手のもの、おそらく同じ時の作であろう。昭和2年ころの作品が、勘内のピーク期に当たる。

〔右より 23.6cm(昭和6年頃)(久松保夫旧蔵)、39.4cm(昭和2年1月)(小山信雄旧蔵)、29.4cm(中屋惣舜旧蔵)(昭和6年頃)〕 こけしの会〈木の花・3〉の連載覚書用の写真
〔右より 23.6cm(昭和6年頃)(久松保夫旧蔵)、39.4cm(昭和2年1月)(小山信雄旧蔵)、29.4cm(中屋惣舜旧蔵)(昭和6年頃)〕
こけしの会〈木の花・3〉の連載覚書用の写真

下掲の鈴木康郎蔵8寸8分も、昭和2年作とあまり時代の変わらぬ作品と思われる。面描しっかりと整って品格があり、さすがに弥治郎の分限の家に生まれた者の風格を感じさせる。

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〔26.6cm(昭和2~3年)(鈴木康郎)〕

下掲は尺5寸という大寸で、やや胴が長いが横広の頭でどうにかバランスを保っている。昭和2年の溌剌高格の表情は薄れているが、人生の残照を眺める者の余情を感じさせる。

〔46.0cm(昭和8年頃)(橋本正明)〕 米浪庄弌→石井眞之助旧蔵
〔46.0cm(昭和8年頃)(橋本正明)〕 米浪庄弌→石井眞之助旧蔵

下掲左は、昭和14年11月勘内死の一ヶ月前の作である。〈蔵王東のこぼこ〉に「勘内の絶作きぼこ」として写真掲載された3本と同じときに作られたもの。菅野新一はこの本の中で「昔の弥治郎きぼこの面影と、勘内自身の孤寥の魂を宿した名作で、暫くロクロから遠ざかっていた勘内が、よくもこんなにいい物を作ったもんだ、と不思議に思うほどの素晴らしい出来栄えであった。」と書いている。

〔右より 20.6cm(昭和11年)、19.7cm(昭和14年11月)(西田記念館)〕
〔右より 20.6cm(昭和11年)、19.7cm(昭和14年11月)(西田記念館)〕

勘内の父栄治は、遠刈田の佐藤周治郎の家で一人挽きの技術を学んで弥治郎に帰り、新しい技法、彩色を駆使した弥治郎系のこけしを確立させたが、おそらく勘内はその栄治の様式をもっとも忠実に継承した作者であったと思われる。
兄伝内や勘内の元で働いた本田鶴松、鎌田文市、蔦作蔵、渡辺求等は、この栄治の家の型をもとに、自分の型を生み出していった。

系統〕 弥治郎系栄治系列 孫の佐藤直樹や、佐藤伝喜、鎌田孝市が勘内型を作る。また昭和46年以降、鎌田文市の弟子国分栄一が体系的に勘内の復元を行った。

 

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