佐藤直助

佐藤直助(さとうなおすけ:1873~1937)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤周右衛門

弟子:岡崎長次郎/佐藤秀一

〔人物〕明治6年2月19日、佐藤周右衛門、志のの四男として宮城県刈田郡宮村161番地(遠刈田新地)に生まれる。周治郎、寅治、直治は兄であり、直蔵は弟である。
少年のころ周助・松之進・文平等と共に寺子屋に通い、当時新地にいた長田秀晴から俳句、和歌、絵、書等の手ほどきを受けた。明治15年、長兄周治郎を残し、父・兄弟と共に一軒下に新宅(現在の護の家)に移った。
明治17年12歳より父周右衛門につき二人挽きの修業を姶めたが、技術の上達は速く、玩具類のほか、盆・鉢・雑器等を作り、玩具の中でも七福神、三福神、七弁慶を得意とした。直助の組物は松之進の達磨、文平の笛物、吉郎平の鳴独楽と共に遠刈田新地で有名であった。こけしも上手で各種工夫して作り、胴模様の木目模様は、明治23年18歳のときの創作という。
明治23年に東京上野公園において開催された第3回内国勧業博覧会の時には若干18歳であったが、佐藤直輔として茶道具を出品している。

第3回内国勧業博覧会 佐藤直輔の出品

明治27年日清戦争に従軍した。この間、明治27年9月に父周右衛門は他界した。
直助は、帰郷後同28年ころより蔵王高湯に移り、万屋斎藤藤右衛門の職人となった。当時万屋には周治郎の弟子の我妻勝之助も職人をしていた。岡崎長次郎はこのとき直助の弟子となった。直助は腕がよかったので、藤右衛門に見こまれて娘カヨの婿となったが、カヨが病死したため、明治30年ころ遠刈田新地に戻った。
その後自宅で木地を続けたが、明治34年ころには弟子の長次郎が新地に修業にきた。明治38年日露戦争に陸軍工兵上等兵として出征、当時の様子が「日露戦争従軍日記」として遺族のもとに残っている。明治39年分家して、兄寅治の家から治平の家の隣りに移った。
分家後は自家で木地を続け、こけしや玩具を盛んに作った。明治42年、湯治と称して松之進や吉郎平と共に蔵王高湯へ行き、弟子の岡崎長次郎が営業していた木地屋代助商店で職人として働いた。
同年より遠刈田の仕送り制度が始まり、直助は北岡仙吉の翼下となって木地業を続けた。
大正以後は、ほとんどこけしを作らず、盆類等の横木物を中心に挽いた。大正10年秋より北岡木工所の職人となったが、技術の上手な年長者が横木等のむずかしいものを挽き、玩具類はもっぱら若い職人の仕事であったので、直助、治平等の熟練者はこけしを作る機会はあまりなかった。
正末昭初以後、少しずつ作り始め、二男秀一が見習工として北岡木工所へ入所した昭和4年ころからは本格的に復活した。
橘文策が昭和6年10月、遠刈田を訪ねて北岡仙吉と話していると、仙吉が「古い型を挽かせてみましょう。」といって若い職人に肩のこけた5寸程の木地を挽かせ、それにそばにいた老人に絵付けをさせた〈 木形子研究〉。その老人が当時は北岡木工所の工場主任をしていた佐藤直助だったという。橘文策は翌7年、 木形子洞頒布で佐藤直助を取り上げた。
同じ頃、未知のこけし作者追求に熱心だった愛知の石井眞之助も佐藤直助を見つけて手紙で注文している。その経緯を記した石井眞之助の手紙は、武井武雄の〈愛蔵こけし図譜〉に付けられた「こけし通信」に紹介されている。「段々と作者を追って調べて行きました處、遂に元老株に直助のあることを突き止めましたので早速手紙を出しますと、数日ならずして文字も文章も實に見事な次のやうな書面の返事が来ました。『拝啓 如貴命残暑酷敷候處御尊家益々御隆盛之段大慶不斜奉恭賀候扨て今回遥々こけし御照会に接し有難念入候 老生常に鉋を手にせず候も御希望とあらば製作御用命に応ずべく候。』上品な直助のこけしが何本も到着したのは昭和6年か7年の事でした。木目模様のは四十年前の形式ださうです。大一尺、小七寸五分。」(石井眞之助よりの手紙)
橘文策は〈 木形子談叢〉にも、松之進と共に紹介したので、この二人は遠刈田の名工として並立した存在と見做されるようになった。互いにその個性から甘美派の直助、剛直派の松之進として蒐集界に広く知られた。その結果、二人のこけしは遠刈田系の一つの規範として、後続の工人たちに大きな影響を与えることになった。
昭和12年11月17日午前10時30分、胃潰瘍のため自宅で没した。65歳。性は温和で、酒は飲まず、甘党であった。直助蔵書、日記類など現存しており、当時としては相当の知識人であったことがわかる。


佐藤直助


佐藤直助 昭和6年10月 撮影:橘文策

 〔作品〕〈木の花・第4号〉で佐藤直助の年代変化が議論されている。そこでは直助のこけし製作を次の五期に分類している。

  1. 復活期:正末昭初に製作を再開し、二男秀一が見習工として北岡木工所へ入所してから本格的に復活した昭和4年ころ
  2. 発見期:橘文策、石井眞之助に発見され、その注文に応じて作った時期
  3. 頒布期:橘文策の 木形子洞頒布でまとまった数を本格的に作った昭和7年
  4. 中期:個別の注文に応じて製作した昭和8年から9年
  5. 後期:晩年の昭和10年から12年。やや表情に生気がなくなり、眼尻の下がるものも表れる

下掲右端は復活期の作、現存する直助の極古い部類に属する。頭はやや長めで、胴には襟を描くと同時に胴下をロクロ線で締めるなど古風である。口を墨で描き、それに紅を加える描法はこの時期のみである。左端は頒布期。


〔右より 復活期 30.3cm(昭和初期)、頒布期 25.5cm(昭和7年頃)(久松保夫旧蔵)〕

下掲の版画は、武井武雄の〈愛蔵こけし図譜〉に佐藤直助の発見を補遺として取り上げられた図版。上述の石井眞之助の手紙が〈こけし通信〉に添えられた。


〈愛蔵こけし図譜〉の佐藤直助図版

下掲は石井眞之助旧蔵で上掲図版のモデルとなったこけし。橘文策の 木形子洞頒布以前の作品は多くはない。胴の木目模様は明治23年直助18歳のときの創作という。石井眞之助への書面にも40年前の形式と書き加えていたから、この木目模様は直助自慢の創作だったのだろう。


〔 発見期 30.3cm (昭和6年頃)(橋本正明)〕 石井眞之助旧蔵

直助の典型的な作品は、 木形子洞頒布のもので胴は細め、姿のバランスもよい。この時期には、佐藤松之進とともに佳品が多く作られ、遠刈田の二人の名工、「剛直の松之進、甘美の直助」と並び賞された。鹿間時夫は直助の甘美を次のように表現した。「1858年のシャトー・マルゴーのようにこくのあるクラレット(赤葡萄酒)はそう容易にはできない。理窟は解決にならない。直助は永遠の命を有するシャトー・マルゴーである。」


〔右より 頒布期 18.5cm、24.8cm(昭和7年)(植木昭夫)〕  木形子洞頒布

昭和10年代の後期になると目じりの下がったものも現れ、表情の緊張感もだいぶ薄れた。シャトー・マルゴーにもやや酸味が立ちはじめたということかも知れない。


〔後期 24.5cm(昭和12年頃)(日本こけし館)〕深沢コレクション

〔伝統〕遠刈田系周治郎系列
二男秀一は直助の作風を継承したが若くして戦死した。秀一の長男佐藤英太郎が直助型を継承した。北岡木工所時代に多くの遠刈田工人と共に働いたので、その影響を受けたものは多い。また蔵王高湯の岡崎長次郎も直助の下で修業したので、その面描等に直助の影響がうかがわれる。

〔参考〕

  • 橘文策:直助との出会い〈こけしざんまい〉未来社(昭和53年)
  • 土橋慶三:名品こけしとその工人 遠刈田・直助・こけし〈こけし手帖・22〉(昭和33年8月)
  • こけしの会同人:連載覚書(四)直助こけし〈木の花・4〉(昭和50年2月)
[`evernote` not found]