佐藤巳之助

佐藤巳之助(さとうみのすけ:1905~1977)

系統:肘折系

師匠:佐藤周助

弟子:佐藤昭一/鈴木清

〔人物〕 明治38年11月10日、山形県最上郡大蔵村肘折温泉佐藤周助、イサの次男として生まれる(周助の本籍地は宮城県刈田郡宮村であり、肘折より離れていたので戸籍に記載された巳之助の生年月日は明治39年10月22日になっている)。佐藤寅之助(重之助の父)は長兄である。大正9年16歳より父の佐藤周助につき木地修業、同12年には開設されたばかりの横山仁右衛門工場へ周助や兄寅之助、中島正と共に入所した。ここでは主に茶托・盆などを挽いた。昭和4年12月1日21歳のとき肘折を去り、遠刈田の佐藤豊治方で一ヶ月働いたあと、昭和5年1月5日に仙台市支倉町の福々商会に入って、ここで3年半職人として働いた。その後、仙台市北材木町181(現:国分町三丁目)にて独立開業した。福々商会の職人時代は昭和5年から8年といわれているが、昭和14年頃まで巳之助のこけしは福々商会で扱われていたので、独立後もおそらく職人として働いたこともあったと思われる。昭和10年、妻女きくとの間に長男昭一誕生。橘文策の〈木形子異報〉で工人として名前だけ紹介され、〈木形子〉〈こけしと作者〉で写真紹介された。昭和15年頃仙台の鈴木清に木地を教えた。戦後も木地業を継続し、昭和33年からは大学を出た長男昭一にも木地の技術を伝えた。また妻女のきくも昭和45年頃より巳之助の仕事を見ながらこけしの製作を行うようになった。亡くなるまで仙台市国分町で営業を続けた。
昭和52年3月31日没、行年73歳。

佐藤巳之助 昭和15年
佐藤巳之助 昭和15年

佐藤巳之助 昭和40年
佐藤巳之助 昭和40年

〔作品〕  肘折時代からこけしも作っていたが、現在その作品は残されていない。確認できる一番古い作品は〈木形子・6〉(昭和13年)の「縣別こけし展望(六)」に写真掲載されたもの。頭は角ばっており、肩の形状、直線的な胴のラインなど肘折の古風なスタイルを良く残している。〈こけしと作者〉にも同じこけしが再掲されており、また新趣向の目の大きい作品も取り上げられている。

〈こけしと作者〉に紹介された巳之助
〈こけしと作者〉に紹介された巳之助のこけし

〈こけしと作者〉の解説には「今工場勤めをしている為、多く世に出せないが、簡素なタッチを桐の木にニヂませて、親譲りの雅味あるこけしを作る。肘折時代の古型、新型の二種あり、尺所を可とする。」とある。昭和13、4年当時はいまだ福々商会で働いており、肘折時代から継承した型と、新趣向のものを作り分けていたことがわかる。肘折伝来の型は、兄弟弟子であった中島正とその作風が近接している。
下掲の深沢コレクションは、頭は角ばってはいないが桐材で作られたこけしで〈こけしと作者〉掲載のこけしと時期的には近いであろう。頭が角から丸への移行期である。

〔20.0cm(昭和13年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔20.0cm(昭和13、4年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

昭和15年以降は、頭部が丸くなりモダンな表情に変わっていった。

〔21.2cm(昭和15年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔21.2cm(昭和15年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

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[24.2cm(昭和15年頃)(庄子勝徳)]

戦後は各地で流行した新型の影響も加わって甘く平凡な作風に変わった。

〔18.5cm(昭和34年)(橋本正明)〕
〔18.5cm(昭和32年)(橋本正明)〕

昭和30年代に入って、周助の現代型を復元して製作するようになったが、この時期は形式のみの写しであって、蒐集家の琴線に触れるものではなかった。

昭和40年頃より、当時西武新宿線の都立家政駅近くに店を構えていた「たつみ」の主人森亮介が仙台の佐藤巳之助のもとに出向き、説得していくつかの周助型の復元を依頼した。当初は文献の写真をもとに復元依頼をおこなっていたが、いくつかの佳品が生まれるようになると、蒐集家の中には周助の現物を森亮介に貸すものも現れた。現物による復元が行われるようになって作風は格段に迫真に迫るものとなり、蒐集界から注目されるようになった。
「たつみ」からは顧客宛に「たつみ特頒」というはがきが送られていたが、昭和40年から昭和48年くらいにかけて毎週のように送られるそのはがきに「名人巳之助入魂の作」「大正黒栗頭入荷」などと書かれた文字がおどっていて、それにつられて作品を競って求める蒐集家の「たつみ詣」という現象が起きるようになった。
そうした復元に対しては、当時はかなり保守的な指導者も居て、賛否両論があったが、巳之助の周助型は完成度が高く、今日になって振り返ってみればその作品は決して周助の模倣ではなく、周助の作品を通した巳之助の自己完成のプロセスでもあったことがわかる。
先人の一連の作品を追求し復元する過程を通して自分を完成させるのは、今日の最も正統的なアプローチであるが、巳之助の一連の周助型はその先駆的な試みでもあった。
こうしたシリーズの復元連作は、他に「たつみ」では菅原敏佐藤文男、二代目虎吉、佐藤誠、井上ゆき子佐藤英太郎瀬谷重治などでも行われた。また名古屋こけし会でも佐藤文男、阿部平四郎、梅木修一などのシリーズ復元頒布などへ発展した。
こうしたいくつかの取り組みによって、今日のこけしの伝統の厚みが生まれたとも言える。

〔右より 29.2cm(昭和41年11月)、24.2cm(昭和41年2月)、30.5cm(昭和42年)(橋本正明)〕
〔右より 29.2cm(昭和41年11月)、24.2cm(昭和41年2月)、30.5cm(昭和42年)(橋本正明)〕
右端は、〈古計志加々美〉原色版の復元、中央は久松保夫蔵の復元、左端は〈こけしの美〉掲載の米浪庄弌蔵の復元。

〔34.6cm(昭和43年5月)(橋本正明)〕
〔34.6cm(昭和43年5月)(橋本正明)〕
鹿間時夫蔵の復元

〔右より 31.0cm(昭和41年8月)、35.2cm(昭和44年3月)(橋本正明)〕
〔右より 31.0cm(昭和41年8月)、35.2cm(昭和44年3月)(橋本正明)〕
右端は久松保夫蔵、左端は鈴木鼓堂蔵のそれぞれ復元。

〔右より 29.5cm、30.3cm(昭和47年)(橋本正明)〕 古肘折周助復元
〔右より 29.5cm、30.3cm(昭和47年)(橋本正明)〕 古肘折周助復元
右端は橋本正明蔵、左端は宮田昭男蔵の復元。

〔伝統〕 肘折系周助系列 後継者に佐藤昭一がいる。

〔参考〕

 

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