阿部平四郎(あべへいしろう:1929~2013)
系統:木地山系
師匠:高橋兵治郎
弟子:阿部陽子/阿部木の実/北山賢一
〔人物〕 昭和4年3月10日、秋田県川連の塗物師阿部常輔の五男に生まれる。11人兄弟の男の末っ子だった。江戸時代に中山平より来て、川連に始めて立木挽きを伝えた寺崎円吉は平四郎の祖先にあたるという。久保の高橋兵治郎の一家とは非常に親しく、高橋雄司とは乳兄弟のようであったという。兄弟が多かったので親の手が回らず、兵治郎一家の中で育ったようなものだと語っていた。
昭和22年横手工業高校機械科を卒業、同年4月19歳で高橋兵治郎の弟子となり翌23年の10月まで兵治郎の仕事場で木地の指導を受けた。その後1年ほど自宅で木地を挽いた。
昭和24年より秋田県大湯の木地業奈良靖規の工場に勤め、約二年ほど茶筒や新型こけしの下木地を挽いた。これに描彩をしていたのは下船保吉であった。
昭和25年警察予備隊の初募集に合格、同年10月22日に入隊した。宮城県矢本に配属、新潟を経て秋田で除隊となった。
昭和27年川連の自宅に戻り、木地を再開、このときは横手中山人形の木地を挽いた。この頃からいたずら程度に自分でもこけしを作るようになった。昭和34年に菅亀之助養女陽子と結婚した。昭和33年5月蒐集家の大浦泰英が来訪、当時廃絶していた泰一郎型の復活を強く要請され、その復元に取り組むようになった。
昭和42年東京こけし友の会例会のお土産こけし製作の注文があり、泰一郎型に混ぜて、本の写真を参考に作った米吉型を加えたところ、会長西田峯吉の目にとまった。平四郎には泰一郎、米吉のこけしから、それに共通する木地山系の始原的なものを把握したいという思いが強かったが、その意欲に感動した西田峯吉は所蔵する米吉を平四郎の元に送り、平四郎はそれを参考に約半年の試行を重ねて、米吉型を完成させた。その米吉型は昭和42年11月の東京こけし友の会で60本頒布され、瞬時に完売となった。この復元の経緯は〈こけし手帖・85、86〉に西田峯吉が詳細に記述している。
その後も自分の琴線に触れるこけしがあると、その研究に熱意を傾けた。そのようにして、蒐集家の手元にある各種の米吉、泰一郎の復元を継続的に行い、その作風と情感をほぼ自分のものとして再現できるようになった。
さらに、小椋石蔵復元をはじめ、木地山のこけし各種を研究試作するなど、その情熱と製作に対する意欲は晩年になるまで衰えなかった。
平成に入って身体をこわし、闘病生活を送ったが、それでもこけしの製作をやめることはなかった。平成24年12月心不全のため入院、平成25年2月25日肺炎を併発して亡くなった、行年85歳。
妻陽子、長女木の実も木地を学び、こけしを作る。弟子には横手の北山賢一がいる。
〔作品〕 初期の作は前垂れ式の木地山様式、自ら工夫した本人型を製作していた。
昭和33年の泰一郎型復元が第一の転機、昭和42年の米吉型復元が第二の転機である。しかし、原物をあずかって半年余試行錯誤を繰り返した米吉型復元が、それ以降の平四郎のこけし製作のすべての出発点になったと思われる。ここで大事なものを掴んだ平四郎は、泰一郎型にしてもそれ以前に比べ格段に完成度を高めることが出来た。
このころ名古屋こけし会でも盛んに平四郎の作品頒布を継続、とくに豊田勘一が用材まで整えた朴材シリーズは、それぞれの作品が見事な出来であった。
〔右より 26.1cm(昭和44年9月)、18.6cm(昭和44年11月)久松保夫旧蔵米吉の復元、15.3cm(昭和44年7月)、13.2cm(昭和42年11月)西田峯吉旧蔵米吉の復元、18.2cm(昭和43年9月)泰一郎型(橋本正明)〕
昭和44年、平四郎は仙台の天江富弥コレクションを見学し、一本のこけしに惹きつけられた。平四郎には誰の作かわからなかった。ただそのこけしに木地山と相通じるものを感じて、それをもとに新しい米吉型を創作した。下の写真の右端である。この原となった天江蔵の小寸作り付けは、実は一ノ関の宮本惣七の作、〈図説こけし這子の世界〉図版96であった。
しかし、出来たものは木地山こけしとして違和感なく、これが左端の様な型を生み、また一方で、各種の「どんころ」シリーズを生みだす契機となった。
〔右より 9.7cm、10.0cm(昭和44年)(橋本正明)〕 天江富弥旧蔵一ノ関をヒントに製作
下の写真は平成に入ってからの作品、小椋石蔵の型も作るようになった。
〔右より 12.3cm 鈴木鼓堂旧蔵米吉復元、24.6cm 石井眞之助旧蔵品米吉復元、24.6cm 米浪庄弌旧蔵石蔵復元 (平成9年)(橋本正明)〕
〔77.5cm~5.6cm(平成9年)(橋本正明)〕 どんころシリーズ
後年になると、泰一郎、米吉の型は既に平四郎の自家薬籠中のものとなって、写しの領域を超え、平四郎がその型の中で創作したり、遊びを加えたりできるようになっていた。泰一郎、米吉の各要素を自由に使って、さらに胴を黄色に塗ったり、ロクロ線を胴の上下に加えたりして、新しい作品つぎつぎに生みだしていった。
「どんころ」シリーズなども遊び心が溢れていて実に楽しい作品であった。
〔系統〕 木地山系
〔参考〕