佐藤米蔵(さとうよねぞう:1909~1981)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤丑蔵
弟子:佐藤一夫
〔人物〕 明治42年11月22日、宮城県刈田郡宮村(遠刈田新地)の木地師佐藤春吉、さんの長男に生まれる。母親のさんは佐藤茂七の二女であり、吉郎平の妹にあたる。佐藤巳之吉は茂七の五女もじと結婚しているので、吉郎平、巳之吉は叔父にあたる。
父春吉は宮城県柴田郡の河内大吉二男で、明治34年にさんと結婚して茂七の婿養子となった。木地は義兄の吉郎平より学んでいるが、大正3年にはやり病のため亡くなった。
米蔵は父に木地を習う機会がなく、大正13年小学校を卒業すると、東京に出て京橋の紙会社に勤めながら夜間高校に通った。昭和5年、現役兵として入営渡満、昭和7年に除隊してもとの紙会社に戻った。昭和10年に旭硝子に入社鶴見工場で働いた。昭和11年長男一夫が生まれた。昭和12年に応召となり上海に渡ったが、昭和15年負傷して帰国した。旭硝子で補充兵の監督などを務めたという。
昭和20年終戦とともに、遠刈田へ帰り、新型木地等を挽いていたが、昭和39年頃佐藤丑蔵から手ほどきを受けて、伝統こけしの製作に取り組むようになった。 その後、遠刈田新地で継続的にこけし製作を行った。
昭和53年に製材中に怪我をして木地を挽けなくなったが、仙台にいた長男の一夫が日曜ごとに遠刈田に戻って、こけしの木地を挽いてくれるようになった。晩年まで描彩は続けたが、昭和56年3月7日に行年73歳で亡くなった。
〔作品〕 昭和39年頃伝統こけし製作を始めるにあたって、こけしの手ほどきは佐藤丑蔵より受けたが、作品は丑蔵型というよりは米蔵本人の型であった。
昭和43年頃から、叔父の佐藤巳之吉の型を作るようになった。昭和44年に中屋惣舜旧蔵の大頭の巳之吉を復元、その後も戦前の巳之吉作を次々に復元し、巳之吉をベースとする米蔵こけしを完成させた。中年から始めたこけし製作ではあったが、吉郎平家の伝統の確かさを示す、安定した作行であった。
下の写真の右端は、中屋惣舜旧蔵大頭の巳之吉を復元したもの。
〔右より 22.0cm(昭和44年10月)、23.6cm(昭和45年3月)(橋本正明)〕
〔系統〕 遠刈田系吉郎平系列 後継者に遠刈田に戻った長男佐藤一夫がいる。