佐藤一夫(遠刈田)

佐藤一夫(遠刈田)(さとうかずお(とおがった):1936~)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤米蔵/佐藤守正

弟子:佐藤良子

〔人物〕 昭和11年1月1日佐藤米蔵の長男として神奈川県鶴見に生まれる。この時、父の米蔵は旭硝子に勤めて鶴見にいた。昭和20年一家は遠刈田へ戻った。一夫は学校を終えて昭和26年15歳の時、遠刈田の北岡木工所に入って木地挽きを学び、職人として働いた。師匠は佐藤守正で、同時期の北岡木工所の職人としては高橋広平、我妻信雄、佐藤治郎佐藤護、外門荒男等が働いていた。北岡木工所は分業で、一階にはロクロを並べて挽き、二階では専ら描彩専門に行っていた。守正の指導のもとに何人かの女性が描彩に従事していた。一階、二階で、合わせて12、3名が働いていた。

今も残る北岡木工所、左手は佐藤守正旧宅(平成26年撮影)
今も残る北岡木工所、右手は佐藤守正旧宅(平成26年撮影)

昭和30年佐藤栄一佐藤三男はこの北岡方式を採用して、我妻与四松、佐藤孝一等を雇って白木地を挽かせ、女性描彩者を使ってこけしを作る木工所経営を行ったが、うまくいかず、6年ほどで閉鎖となった。
佐藤一夫は、昭和28年仙台の二十人町にいた朝倉英次のもとに行き、佐藤正男らとともに職人として働いた。昭和32年仙台市の幸町で独立開業した。向かいの家が石川駒蔵で、その二女良子と結婚した。昭和36年26歳で木地をやめて、サラリーマンになる決意をする。ロクロ工具一式を佐藤吉之助の弟子の長尾昌儀に譲り、三菱重工の新丸子工場に就職した。27歳でクレーン運転士の免許を取得、三菱重工をやめて江戸川にあった重機会社の千代田産業に勤めた。当時は高度成長の時代で、石油増産のためタンクの新設が相次ぎ、神奈川の扇島などでいくつものタンク製造のためのクレーン操作を行った。景気はよく、学卒初任給二万円くらいの時代に、十万円くらいは稼げた。
昭和49年に仙台に戻り、クレーン運転士として働き続けたが、昭和53年に父米蔵が製板中に怪我をして、木地を挽けなくなったので、日曜祭日には遠刈田新地の父の家に通って、米蔵のために白木地を挽いた。昭和56年に父米蔵が他界した。昭和60年50歳を期にクレーンの仕事をやめて、遠刈田新地の父の家の場所に作業場と家を立てて木地を専業に行うようになった。工房には「木偶之房」と命名している。遠刈田の木地の組合にもこの時入った。師匠の佐藤守正から絵付けのやり方を本格的に教わった。自分なりの描法は手間がかかって、なかなか上手くはかどらなかったが、守正の指導で随分簡単に描けるようになった。
妻良子もロクロを挽くようになり、現在では遠刈田新地の入り口左手にある作業場で、ロクロを二台並べてこけしを作っている。

佐藤一夫 平成26年6月2日

佐藤一夫 平成26年6月2日

〔作品〕 佐藤守正からの伝承の本人型のほかにも、父米蔵の型、父米蔵の叔父に当たる佐藤巳之吉の型などを作る。木地も描彩も技術的に完成しており、緊張感に富んだ品格のある作品を作る。伝統的な様式の中に現代風の感覚を入れるような工夫も、継続的に試みている。新しく考案した文様には、鷺草、菖蒲、カタクリ、椿、木目と牡丹等がある。
師匠の佐藤守正からの継承で小原直治の型も作った。
平成26年から佐藤文吉の型も作り始めた。これは父米蔵が佐藤丑蔵にこけし製作の手ほどきを受けたので、同じ丑蔵の弟子文吉は父と兄弟弟子にあたるからである。
また、文吉の祖父佐藤文六の型も作っている。

〔右より 30.3cm(平成13年)、31.8cm(平成15年)(高井佐寿)〕
〔右より 30.3cm(平成13年)、31.8cm(平成15年)(高井佐寿)〕

〔18.2cm(平成20年)(橋本正明)〕名古屋こけし会頒布
〔18.2cm(平成20年)(橋本正明)〕名古屋こけし会頒布

〔27.4cm(平成26年5月)(橋本正明)〕 文吉型
〔27.4cm(平成26年5月)(橋本正明)〕 文吉型

〔19.5cm(平成26年11月)(橋本正明)〕 巳之吉型
〔19.5cm(平成26年11月)(橋本正明)〕 巳之吉型


〔右より 20.2cm(平成28年11月)、24.5cm(平成29年11月)(橋本正明)〕 佐藤文六型 山河の響の会

〔伝統〕 遠刈田系吉郎平系列

〔参考〕

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