佐藤周右衛門(さとうしゅうえもん:1832~1894)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤亥之松
弟子:佐藤周治郎/佐藤寅治/佐藤直治/佐藤直助
〔人物〕 天保3年4月14日、佐藤亥之松の長男として刈田郡宮村(遠刈田新地)に生まれる。戸籍上では佐藤七右衛門長男となっているが、七右衛門は周治郎家の家号で、通称亥之松という。木地挽きの修業開始年代は不明だが、二人挽き時代には17、8歳からロクロにつくのが通例なので、父亥之松や祖父七右衛門につきこのころから二人挽きを修業したのであろう。
刈田郡曲竹村の松崎長兵エ長女志のと結婚。長男周治郎以下、寅治、直治、直助、直蔵はみな木地を挽いた。
周右衛門は腕がよく、文久年聞には、青根で、仙台藩主伊達慶邦公の前で二人挽きロクロを実演した。このときの綱取りは、吉郎平家の佐藤文吉であったという。下掲はその折頂戴した褒状の写し。新地の木地師は、片倉藩が遠刈田七日原に牧場を開いた折、その警備と管理の任に付いたため足軽として取り立てられた。
長男周治郎とは折合いわるく、明治17年に家督を周治郎に譲って晩年は隣家にあたる寅治の分家で生活した。明治18年田代寅之助により足踏みロクロが遠刈田に伝えられたが、周右衛門が中心になってその仲介の労をとったという。
明治27年9月23日没、行年63歳。
〔作品〕 写真のこけしは、南北堂の佐藤祐彦が昭和初年に遠刈田で古くなったこけしを手に入れたもの、菅野新一の手を経て今は高橋五郎蔵となっている。このこけしは作者不明であるが、明治初期の二人挽き時代のこけしであろう。現時点では周右衛門一家の可能性が一番高いと考えられている〈こけし手帖・574〉。
確かに、このこけしの撥鼻の手法は、飯坂の栄治や、弥治郎の伝内・勘内と共通するものであるし、近年発見された井上藤五郎(柿崎藤五郎)の描き方とも繋がる。おそらく周右衛門家の古い手法であり、このこけしが周右衛門一族の手になることを支持するものと言える。周治郎・寅治の可能性もあるが、面描全体の印象は飯坂の栄治を強く思わせるので、この写真のこけしを「伝佐藤周右衛門」として紹介する。
また、このこけしの頭部描彩は下掲のようになっていて、赤い放射線状の手絡ではない。佐藤友晴は〈蔵王東麓の木地業とこけし〉で赤い放射線状の描法は作並から槻田与左衛門が伝えたものと書いているが、それ以前の遠刈田の頭部描彩はこのようなものだったと思われる。
〔伝統〕遠刈田系
〔参考〕