嶋津彦作

嶋津彦作(しまづひこさく:1886~1950)

系統:津軽系

師匠:嶋津彦蔵

弟子:

〔人物〕明治19年3月1日、嶋津彦蔵長男として青森県南津軽郡山形村大字温湯字新道に生まる。木地挽きは父彦蔵から温湯温泉で修業したものと思われる。大正3、4年に弟彦三郎と共に大鰐町に移住し、田中重吉方の職人をした。
大正8年ころ弟彦三郎と共に間宮明太郎の家の隣で独立し、重吉もここで働くようになった。大正13年、大鰐で初めての動力ロクロを用いた木工株式会社を設立して社長となり、この年に長谷川辰雄を弟子とした。職人には彦三郎、辰雄、松岡新太郎、佐々木金次郎、山谷権三郎等がいて、雑器類の柄杓、腰高、椀等や玩具類のズグリ、えじこ、こけし等を作った。
昭和2年にこの木工会社が倒産したので、彦作は旅館加賀助の所でスキー製造業をしながら木地を挽いた。弟子の長谷川辰雄も昭和4、5年までここにいて、共に木地を挽いたが、彦作は柄杓や杓文字等を作り、こけしは作らなかったという。
辰雄が去った後もスキー製造業を続けるかたわら、木地を挽き、昭和10年ころから弟彦三郎方で働いていた。戦後は木地を挽かなかった。昭和25年8月9日没、行年65歳。


嶋津彦作 撮影:水谷泰永

〔作品〕弟子の長谷川辰雄の知るかぎりにおいては彦作はこけしを全く挽かず、描彩もしなかったという。また大鰐の当時を知る人々の話を総合しても、彦三郎はこけしを挽き描いたが、彦作はまったく作らなかったと証言している。
一方、西田峯吉は彦作にあって次のような話を聞いている。「私の現地採訪ノートによると、温湯出身の島津彦作は彼が10歳前後の頃、すなわち約50年以前の温湯土産を思い浮べ、杓子や、じょうば、こまなどと一緒に木人形があったといい、ただ、それを何といったか名称は記憶にないという。また大鰐の居付の古い木地屋である間宮明太郎は、やはり、子供の頃(およそ四十年以前)大鰐に木人形があったのを記憶しているといっている。」〈こけし風土記〉
〈陸奥乃小芥子〉の著者木村弦三のコレクションは弘前市立博物館に所蔵されており、嶋津彦作、彦三郎名義のこけしが数本ある。そのいづれもが描彩はまちまちなので、とても一人の手によるものものとは思われない。これらはほとんど大正期から昭和初期の作であり、おそらく彦作や彦三郎が挽き、弘前のねぶた絵師等の描彩者に描かせたものと思われる。作風は一それぞれが泥臭く、グロテスクなもの、優しい表情のもの、鋭い表情のもの等があって一様ではない。
〈こけし時代・11〉に木村弦三のコレクションの一部が写真掲載されており、その中には彦作名義のこけしが二本が掲載されている。

〔伝統〕津軽系温湯亜系

 

〔参考〕

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