松岡新太郎(まつおかしんたろう:1905~)
系統:津軽系
師匠:嶋津彦三郎/田中重吉
弟子:
〔人物〕明治38年3月3日に青森県大鰐町蔵館の農家に生まれる。大正9年5月大鰐の嶋津彦三郎に弟子入りし、大正13年まで5年間の年季奉公した。
新太郎が嶋津の木工所に入った頃、田中重吉もここで仕事をしていた。重吉は弘前工業学校を出ており、彦三郎も新太郎も、重吉の指導を受けたという。大正13年には島津彦作を社長とし、動力ロクロを備えた木工会社が設立され、彦三郎、新太郎、長谷川辰雄がここで働いた。後になって佐々木金次郎、山谷権三郎も一時この会社で働いたという。
この会社ができてから、津軽で長く統制されていた木地技術の一子にのみ相伝するという規制が崩れた。
大正14年には三上文蔵も弟子入りして嶋津の下で木地を挽いた。嶋津の木工会社は昭和2年に閉鎖となったが、新太郎はその後を継承した木工所で昭和10年頃まで職人として働いた。
新太郎は父の死を契機に実家に戻り農業をやり、農閑期のみ木地を挽いたが、戦後は農業専業となった。晩年は大鰐大湯会館の湯番をした。昭和44年に宮藤涼一が新太郎を訪ね、聞書を〈こけし手帖・104〉に発表している。
没年は不明である。
〔作品〕 新太郎木地の大鰐こけしは昭和10年以前に多く挽かれ、嶋津の作品中にかなり存在すると思われるが、すべて描彩者名義で扱われたため、木地の判別は難しい。本人が描彩をして新太郎名義で世に出たこけしはない。
〔伝統〕 津軽系
〔参考〕