高橋胞吉

高橋胞吉(たかはしえなきち:1861~1939)

系統:作並系

師匠:高橋亀吉

弟子:

〔人物〕文久元年1月27日、仙台市の木地業高橋亀吉、かんの長男に生まれる。父亀吉は高橋勝右衛門の長男で文政11年10月13日の生まれ、母かんは宮城郡苦竹村佐藤七右衛門の二女であった。弟に昌吉、妹にとめがいた。仙台市八幡町に居住し、この地でこけしを作った。
天江富弥によると「胞吉は父の仕事を見て15~6歳の頃にはおおよそ一人前に挽けるようになっていた。最初にこけしを作ったのは明治13年19歳の頃で、父亀吉からの伝承による」という。
明治10年代に西洋の旋盤に刺激を受けてダライパンを考案した。明治18年
田代寅之助が胞吉を訪れた時にはすでにダライバンの一人挽きを使用していたという。そこで田代寅之助は胞吉に紹介された遠刈田新地に向かい、遠刈田に足踏み轆轤を伝授することになった。
父の亀吉は、作並の流れを引く愛子の木地師小松藤右衛門、その弟で折立の庄司家の養子となった惣五郎と交流があり、その縁でダライバンの技術は愛子や折立へも伝わった。庄司惣五郎がダライバンのために改築した工場でも胞吉は職人として働いたと言う。
明治21年3月6日、宮城県宮城郡芋沢村の佐藤長左衛門の妹ふみと結婚した。ひさ、とみ、長吉、勝吉、みよしの二男三女を設けた。ふみの妹まんは作並の岩松秀三に嫁している。胞吉は妻ふみとその妹まんを介して作並の岩松本家とも通じていた。
父の亀吉は明治32年9月18日に72歳で亡くなった。
大正3年頃に天江富弥が胞吉の仕事ぶりを見た時は、ある器具の一部のようなものしか挽いていなかったという。この頃胞吉は、主に市内の家具屋から木地の注文を受けていたようである。ただ近所の子供たちに頼まれれば、こけしや独楽などを作っていたらしい。また天江富弥の記憶によると小正月の大崎八幡松焚祭の参道に、筵を敷いてこけしやヤミヨを無造作に並べて売っていたと言う。
大正10年61歳のころから神経痛の大病を患い、3年程中気のような半身不随の状態に苦しめられた。酒が好きであり、投網が唯一の道楽だったので下半身を冷やし、このため神経痛を起こしたらしい。大正12年、体調がやや回復したころ、天江富弥からこけし製作の打診を受け、「こけしなら俺も若いころ作ったことがある」と言って愛好家相手にこけしを作るようになった。それらは三原良吉、天江富弥などがこの年結成した仙台小芥子会や、東一番町文化横丁の郷玩店小芥子洞で頒布された。小芥子洞が昭和3年閉店となり、日下コウの桜井玩具店に引き継がれてもなお胞吉のこけしは販売されていた。昭和10年に桜井玩具店がさらに鈴木清に引き継がれてからは店頭には現れなかった。大正8年三女と妻が死亡、昭和5年には長男長吉を亡くし、老衰の身で嫁や孫のために少しづつこけしを作り続けることになったが、「神経痛の大病にかかり筆致が震えたことで、かえってこけしの表情に古拙味が現れるようになっていた」と鹿間時夫は書いた。
晩年胞吉に会った橘文策は「中背白面で気品あり、言葉つきから物腰、職人にしてはなかなか立派であるが、すっかり老衰して痛々しく見えたが、親しみやすくよく話す人である。」と記している。
昭和7年男澤春江が木下玩具店主と同道して弟子入りを頼んだが弟子は取らないと断られた。
長男長吉の妻うめよが土橋慶三に語ったところでは、「外行のいい人で他人には親切で優しく仏様のように好意を持たれたが、内輪に入るとその正反対で気難しく、嫁には実に辛く当たった。」とのことであり病臥中は特に、嫁のうめよにとって介護が難しい舅であったようだ。
弟の昌吉も木地をやったが、大正5年54歳で没した。子供には木地を教えなかった。二男勝吉は経理関係の仕事をし、大阪師団司令部の経理部長にも就いた。
長吉の長男是清は仙台市にいて、生前「褜吉が正しい表記〈こけし手帖・96〉」と主張して墓石にもそう彫ったが、高橋亀吉の戸籍における表記は胞吉である(但し、妻ふみの実家佐藤長左衛門の戸籍のふみの項には「高橋亀吉長男褜吉ニ嫁ス」と繁体字で記されており、「胞吉」は高橋亀吉の戸籍に役所での転記があった際に簡略体にされたものかも知れない)。
 昭和14年8月18日に没した、行年79歳。
彼のこけしは清純枯淡で生前より多くの愛好家を持ち、今日に至るまでその声価はゆるいでいない。

高橋胞吉 昭和6年  撮影:橘文策
高橋胞吉 昭和6年  撮影:橘文策

〔作品〕高橋胞吉のこけしの源流は諸説が有って、しかも長い間決定的な決め手を欠いていた。しかし、仙台の高橋五郎の調査をもとにほぼその大要が見えるようになった。
八幡町の高橋胞吉の父亀吉と、愛子の小松藤右衛門、その弟折立の庄司惣五郎とは木地師仲間として深い交流があり、その所在地も愛子街道に沿って並んでいる。
南條徳右衛門によって箱根から伝わった木地の技術は、作並で岩松直助に伝わり、染料を使った赤物を作る環境のなかで人形類が作られるようになった。岩松直助が秋田湯沢の三梨村から作並に移住したのは天保の飢饉の頃(1833~36)あるいは天保末年(1844)頃、こけしが作られ始めたのもおそらくその頃であろう。萬延元年(1860)に岩松直助から小松藤右衛門に与えられた萬挽物扣帳(岩松直助文書)には「人形」の名が見える。
おそらく人形製作のアイディアは岩松直助から小松藤右衛門、庄司惣五郎、高橋亀吉ー高橋胞吉と共有されたであろう。
下掲写真は清水晴風旧蔵の明治中期の高橋胞吉作であるが、このこけしや今野新四郎作とされたこけしなどに作並系の最も古い形態を見ることが出来る。
この「胴に肩のある形態」が天保の創成期の姿を残しているとすれば、弘化年間(1844~48)に生まれた鳴子のこけしにも作並の古型は影響を与えたかもしれない。

〔10.5cm(明治中期)(清水晴風旧蔵)〕 高橋五郎〈高橋胞吉ー人とこけし-〉掲載 
〔10.5cm(明治中期)(清水晴風旧蔵)〕 高橋五郎〈高橋胞吉ー人とこけし-〉掲載

高橋胞吉をこけし作者として表に出したのは天江富弥である。天江富弥がこけしに興味を持つようになった頃、幼少期に生家の近くで独楽などを作ってくれた木地師のことを思い出し、こけしのことやその製作の有無を尋ねたのがきっかけとなった。胞吉は「若い頃にはたくさん作った。そんなものはわけはない。」といって作ってくれた。大正10年のことだと言う。その時の一本、尺のこけしは〈こけし這子の話〉に写真紹介されていて、下掲の左端のように口を写実的に描いたものだった。ただし尺の方の原物は現在所在不明になっている。


〈こけし這子の話〉 図版:陸前 一に掲載された胞吉

下掲の二本も天江富弥旧蔵品、同じように大正10年に作ってもらったこけしである。
左端のくびれ型を鹿間時夫は標準型といっていたが、右端の直胴が胞吉の本来の姿のように思われる。橘文策の聞書きでは胞吉自身は直胴を方を標準型と言っていたそうである〈こけしと作者〉。下掲右端は上掲〈こけし這子の話〉の右のものである。

〔右より 19.7cm、33.0cm(大正10年)(高橋五郎)〕 天江コレクション
〔右より 19.7cm、33.0cm(大正12年)(高橋五郎)〕 天江コレクション

大正13年頃になると仙台の小芥子洞から売り出され、蒐集家の手に渡るようになる。
ただし、人気が高い割に製作本数は少なく、入手困難なこけしであった。
深沢要は「仙台の高橋褜吉、土湯の斎藤太治郎、滝ノ原の伊藤儀一郎のものをこけしの三少女と呼んでいる。〈こけしの微笑〉」と書いた。太治郎は支那の、儀一郎は西洋の、胞吉は日本の少女だという。昭和10年頃、蒐集家にとってこの三作者を集めることがまず目標であった。
胞吉のこけしは竹久夢二張りだと評する蒐集家もいた。

〔19.6cm(昭和6年ころ)(橋本正明)〕
〔19.6cm(昭和3年ころ)(橋本正明)〕

〔24.2cm(昭和8年ころ)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔24.2cm(昭和6年ころ)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

胞吉は木地師として大変プライドの高い工人だったようである。蒐集家が他のこけし工人の作品を見せると「こんなものはわけはない」とすぐに同趣のものを作ったらしい。〈うなゐの友〉掲載の版画絵のこけしを見せられて作ったものもある。上掲の胴に輪状突起のある形態、所謂「輪入り」は〈うなゐの友〉の奥州一関産こけし這子に触発されたものである。また、遠刈田の襟を描いたこけしを見せたら、早速襟を描いたこけしを作ったとも言う。

系統〕作並系
胞吉の型は、鈴木清ー鈴木昭二ー鈴木明ー鈴木敬、里見正雄ー里見正博などにより継承されている。

〔参考〕

  • 土橋慶三:高橋胞吉の追求〈こけし手帖・96〉:昭和44年3月
  • こけしの会:連載覚書(七)胞吉こけし〈木の花・7〉:昭和50年11月
  • 高橋五郎:〈仙台周辺のこけし〉(仙台郷土玩具の会):昭和58年9月6日
  • 高橋五郎:〈高橋胞吉ー人とこけしー〉(仙台郷土玩具の会):昭和61年9月6日
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