今野新四郎(こんのしんしろう:1859~1924)
系統:作並系
師匠:庄司惣五郎
弟子:太田庄吉
〔人物〕 安政6年3月21日、宮城県宮城郡大沢村芋沢村本郷の農業今野太左衛門・さゑの四男に生まる。新四郎には幼児のころから進行性の足の骨の病があり、農業には向かなかったため、手に職をつけることを志した。そこで明治10年頃、名取郡生出村字茂庭の庄司惣五郎について木地を習得し、その後さらに3年ほど秋保に行って木地を挽いたが、やがて芋沢に戻って独立開業した。明治20年佐藤長助の参女きくと結婚し、きくに綱とりをさせて二人挽きで木地を挽いた。新四郎は自家に売店は持たず、臼・こけし・手回しごま・雑器・丸盆などの製品は、作並温泉岩松旅館の岩松亥之助・大沢村の石垣長右衛門に卸していた。太田庄吉は新四郎の弟子である。
新四郎は明治40年頃まで木地を挽いていたが、明治43年1月に当時家督であった甥の福松の家から同村下川前に分家し、同年12月に芋沢字栗生沢(大竹原)に落ち着いた。大竹原では間もなく木地業を廃業、定義如来への参拝客目当てに酒・たばこ・菓子類などの小店を出したという。廃業の理由は、足が悪かったため当時主流になっていた足踏みロクロへの転向が出来なかったためかも知れない。大正13年12月5日没、行年66歳。
新四郎は几帳面で古いものを良く残していた。下掲は新四郎が記した皿器(雑器)の卸の控えである。また、新四郎が使ったという色粉をといた茶碗とそれを納めた木箱が、昭和46年頃には残っていた。
新四郎が記した皿器(雑器)の卸の控え(〈仙台周辺のこけし〉より)
新四郎の師匠庄司惣五郎は愛子の小松藤右衛門から木地を伝承、小松藤右衛門は作並の岩松直助の弟子であった。小松藤右衛門の萬挽物扣帳は庄司惣五郎の手を経て今野新四郎に渡った。その萬挽物扣帳は現在高橋五郎の所有になる。
〔作品〕 下掲の花筐これくしょんの6寸は、清水晴風旧蔵で明治39年11月京都岡崎町博覧会館で開催された「こども博覧会」に出品されたもの。作者不明であるが今野新四郎作である可能性が高い。
明治39年以前であることは確かであり、同じ博覧会陳列の大沼甚四郎などから考えるとおそらく明治20~30年代のものと思われる。作並の流れを汲む作品であるから、小松藤右衛門、庄司惣五郎も考えられるが、この二人は明治20年代までに既に木地を廃業している。もう一人可能性があるのは藤右衛門の弟子の槻田與左衛門であるが、與左衛門は明治17年に青根に行き、同18年に田代寅之助について一人挽きを修業、青根・遠刈田の新手法確立に貢献した工人であるから、明治20年以降は作並様式ではなく、遠刈田様式のこけしを作ったはずである。高橋胞吉は同年代の清水晴風旧蔵の胞吉作と一致しないので除外できる。こうした考察をもとに、下掲6寸は今野新四郎であろうとされている。新四郎は終生手挽きロクロで通しているから、描彩にロクロ線を加えることはない。
菊籬という古風かつ伝統的な日本の図案を用いた作である。また一人挽きが導入されて数々の手法、描法が考案され、こけしの系統が分化していく以前の姿を残した作品でもある。
〔18.5cm(明治30年代)(花筐これくしょん)〕 清水晴風旧蔵
明治39年11月の京都市岡崎町博覧会館に出陳
明治39年11月京都岡崎町博覧会館で開催された「こども博覧会」図版
中央右手に寝かされているのが今野新四郎作
中央後方は左:大沼甚四郎、右:宮本惣七
〔系統〕 作並系
〔参考〕
- 倉治描く、花は桜か、紅花か?
- 高橋五郎:「仙台周辺のこけし」仙台郷土玩具の会(昭和58年9月)
- 高橋五郎:「高橋胞吉-人とこけし-」 仙台郷土玩具の会(昭和61年9月)