岩松直助は、秋田県雄勝郡三梨村出身で、天保の飢饉のころ宮城県宮城郡作並に移り、作並で木地に携わっていた南條徳右衛門より木地技術を修得した木地職人。天保年代より明治初年まで作並で木地を挽きこけしも製作した。
岩松直助文書は、岩松直助の製品の寸法書を弟子の小松藤右衛門(戸籍名今朝右衛門)が書き写し、それに木地技術相伝の証書を岩松直助が書き加えた控帳、正式には〈萬挽物扣帳〉という。
この萬挽物扣帳は、小松藤右衛門よりその弟で庄司家の養子となった惣五郎に伝えられ、惣五郎からさらにその弟子今野新四郎に伝わった。仙台のこけし研究家高橋五郎が新四郎の六男多利之助から譲り受けて世に知られるようになった。
高橋五郎は、控帳発見の経緯、その内容と考察を〈仙台周辺のこけし〉(昭和58年9月)にまとめて出版した。
全容は〈仙台周辺のこけし〉に詳しいが、概要は下掲の通りである。
表紙:控帳名〈萬挽物扣帳〉と書き始められた年代が万延元年(1860)であることがわかる。
第1~第43頁:木地製品の寸法書。右上に値段が朱記されている。
この部分の筆跡は小松藤右衛門と思われる。
製品の筆頭がこけしであり、それを人形とよんでいるが、これはこけしを作る作者の側にとって普遍的な呼称である。大きさを大々、大、中、相、小で区別しているが、後の山形もこの分類を踏襲していた。
第2頁(第1頁裏)は白紙
第45~47頁:この部分は木地の相伝書。筆跡は岩松直助と思われる。直助の師匠が南徳翁すなわち南條徳右衛門であること、徳右衛門は箱根で技術を身につけ、作並に来たことが記されている。
こけし誕生に箱根など赤物の先進地からの発想の伝承があったとする説を補強する記載である。
南條徳右衛門の墓は作並に残されており、慶応元年65歳で亡くなったことがわかる。生まれたのは享和元年(1801)と言うことになる。作並にやってきた年代はわからないが、伝えるだけの技術を身につけて来たとすれば20歳代、おそらく文政の中頃であろう。
相伝の後半に付として「この業を知るもの余の兄弟羽前に二人、汝と共に四人」とある。羽前(最上川以南の山形領)の二人が誰なのかは不明。
第48~53頁: この部分では寸法書に朱で付記した値段が、相場の変動で変わったので辛未(明治4年)の秋から改定したことを記し、後半(第49頁中段以降)に改定の価格リストを記している。
万延元年に1貫6百文であった桜台が、明治4年に4貫文になったとある。金札の相場が落ちたことがわかる。
第48頁に南條徳右衛門の名が出てくるが、ここでは南城徳右衛門と記載されている。この部分の筆跡は前半の寸法書と同様であり、小松藤右衛門と思われる。
なお、この辛未の年を明治4年の60年前、すなわち文化8年(1811)とする説を掲げ、作並を最も古いこけしの発祥地とする議論もあるが下記の理由で明治4年説が妥当である。
- 文化8年は南條徳右衛門が11歳であり、その徳右衛門がさらに以前に定めた値段の価格改定を、生誕以前の孫弟子の藤右衛門が議論することはありえない。
- 第48頁から始まる価格改定にかかわる記載は、万延元年に相伝書に直助が署名した第47頁の後段(裏)から書き始めており、少なくとも万延元年(1860)以降である。古文書では頁順自体が年代資料であり、先行する記載が後段に記載されることは考えにくい。
- 第48頁以降の筆跡は再び小松藤右衛門と思われる。藤右衛門であれば天保9年(1838)生まれであるから、文化8年(1811)の価格改定を記載することはない。
- 明治4年は、明治政府によって廃藩置県が行われ、藩札(金札)回収令がだされる時期でもあり、金札の相場は変動した。この年に価格改定を行うことには必然性がある。
裏表紙:
萬挽物扣帳は、こけし研究における一級史料であり、従来輪郭が明確ではなかった作並系の確立とその伝播について、かなり明確な視野を与えることになった。高橋五郎によるその発見と紹介の功績は大きい。
〔参考〕
- 高橋五郎:〈仙台周辺のこけし〉(仙台郷土玩具の会)(昭和58年9月)