高橋勘治

高橋勘治(たかはしかんじ:1860~1921)

系統:鳴子系

師匠:大沼利右衛門

弟子:高橋盛/高橋忠志/高橋勘四郎/菊地三九郎/菊地英次郎/柴崎丑次郎/押切忠輔/大沼平内/大沼誓

〔人物〕  万延元年4月12日、宮城県玉造郡大口村38番地(川渡鍛冶谷沢)の高橋丹治次男に生まれる。丹治家は代々丹治で、父丹治は名生定村の中鉢吾八の三男孫吉であったが、祖父丹治の養子となり、家督を継いだ後丹治となった。勘治の長兄忠介は治右衛門という長男を残して若くして亡くなったので、明治12年父丹治の隠棲にともない勘治が家督を継いだ。 姉にきん、けさのがいる。 父の丹治は文化6年12月1日の生まれで、勘治が生まれた時にはすでに55歳であった。 姉きんに婿を取り、養子としたが、その養子も若くして亡くなったので、勘治が一家を背負うことになった。 9歳年長の姉のけさのは、鳴子の木地師高橋利右衛門に嫁いでいた。年老いた父を含む一家を支えるには手に職を付けるのが良いと思い、明治8年16歳の時鳴子に赴き、姉けさのの夫である利右衛門について木地の修業を始めた。修業期間は約4年で、明治11年19歳の時鳴子で独立開業した。翌12年には家督を継承した。
明治16年24歳の時、玉造郡下野目村の千葉喜惣太妹たんと結婚、明治17年に長男丹右衛門、明治23年に次男盛、明治27年に三男忠志、明治35年に四男勘四郎が生まれた。このころ勘治が挽いた木地製品は妻女たんが宿屋廻りをして、車湯、田中湯、川渡あたりまで売り歩いたという。一方、父の丹治は明治31年旧歴11月20日(明治32年新暦1月1日)90歳で亡くなるまで長命を保つことが出来た。
師匠の大沼利右衛門は、湯元の坂を上ってすぐ左側、現在岡崎斉一の店ある場所の下手に家があり、作業場を持っていたが、明治31年6月7日に51歳で亡くなった。利右衛門の没後、未亡人のけさのは家を二つに仕切って、一方を自分の店、他方に勘治一家を移らせて店を出させた。この当時、鳴子の木地屋で自分の店を持っていたのは高橋勘治の他、高野幸八、高橋亀三郎、大沼岩太郎と計4軒であった。
丁度この頃、静岡の膽澤為次郎が鳴子にやってきて、漆器商沢口吾左衛門宅に滞在、その工場で足踏みロクロ(一人挽き)の指導を行った。為次郎の指導を受けたのは、高野幸八・高橋万五郎・高橋勘治・遊佐雄四郎・大沼新兵衛の5人であった(大沼新兵衛談)。高野幸八や高橋勘治が、丸物のほかに板物をも巧みに挽くようになったのは為次郎の指導を受けてからである。また波挽き(ビリカンナ)の手法も為次郎から学んだという。
明治35年には、特に板物の技術を見込まれて、岩手県磐井郡大東町内野の熊谷勇治の工場に招かれ、丸膳や椀などを挽いたという。この時の弟子に畑山義三郎がいる。
岩手からは約一年ほどで鳴子に戻った。また、頼まれて石巻市広渕に行き、滞在して桑材で椀、湯飲みをたくさん挽いたこともあった。明治43年の水害の後の北上川改修で切られた土手の桑材を利用するため招かれたという。
長男丹右衛門は木地を継がず、塗師となって会津に移ったが、次男盛以下、忠志、勘四郎は勘治について木地を習得した。そのほかにも多くの弟子を指導したが、主なものに菊地三九郎・菊地英次郎兄弟、柴崎丑次郎、押切忠輔、大沼平内、大沼誓等がいた。
勘治は仕事場に直径6尺の車を付けた轆轤を設置していた。車には取っ手が取り付けられており、大沼平内と誓と二人がかりでその取っ手を持って車を回し、勘治が盆・椀などの木地を挽いたという。一人挽きの足踏みに比べて約10倍の効率、三人がかりであるとしても一人当たりの効率は3倍以上であったという。
弟子への指導は厳格、気は短かったが腕力をふるうことはなかった。しかし、弟子たちからは恐れられていたという(大沼誓談)。
大正10年12月24日没、行年62歳。亡くなる歳まで仕事をしていた。

高橋勘治 大正8年 60歳

高橋勘治 大正8年 60歳

〔作品〕 勘治の作品が写真紹介されたのは極古く、大正14年刊行の婢子会〈日本土俗玩具集・第二輯〉の第五図に掲載された。ただし作者名は記載されておらず、「仙台鳴子」として紹介されたその4本が、今では勘治とその一家の作であることが分かる。特に中央の尺2寸、その左の9寸は勘治の作。前列の二本は勘治一家と言われるこけしである。

〈日本土俗玩具集・第二輯〉の第五図に掲載された勘治(中央)
婢子会〈日本土俗玩具集・第二輯〉の第五図に掲載された勘治(中央)

このこけしが再び現れるのは昭和14年、銀座吾八の店頭に並び、また吾八発行の〈これくしょん・31号〉に作者不詳のまま掲載された。これは婢子会の尺2寸と同一のものであった。

吾八〈これくしょん・31号〉(昭和14年11月)に掲載された勘治
吾八〈これくしょん・31号〉(昭和14年11月)に掲載された勘治

吾八にでた尺2寸の勘治は2本あり、1本は深沢要、もう1本は西田峯吉の所有に帰した。
また、昭和16年の〈これくしょん・45号〉の売り立てにも、いわゆる勘治一家(あるいは盛一家)と称するものが15本ほど出た。
この時期、吾八に出た一連の古こけしは関西方面からでたもの、婢子会と関係があり、同一種のこけしが多数でていることから、出所は個人収集家というより業者であった可能性が高い。後述する橘文策の2本と同様に、おそらく出所は大阪日本橋南詰で筒井郷玩店を開いていた筒井英雄であって、それを吾八の経営者山内金三郎が掘り出してきたものと思われる。

〔34.0cm(明治39年)(深沢コレクション)〕
〔34.0cm(明治39年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

〔35.5cm(明治末期)(西田記念館)〕 西田峯吉コレクション
〔35.5cm(明治39年)(西田記念館)〕 西田峯吉コレクション

吾八から出た尺2寸の作者究明に熱意を傾けたのは西田峯吉であった。西田は、このこけしの描法が高橋盛に一番近いと判断し、昭和17年5月、当時秋田市県立工業指導所の教官を勤めていた高橋盛を秋田に訪ねて、持参した尺2寸を見てもらった。盛からは、「父勘治のものに間違いない、これは明治39年か40年頃のものだ。」という鑑定を得る。
その詳しいいきさつは〈鯛車・58〉(日本郷土玩具協会刊)に掲載された。
また、戦後高松の秋田亮刊行の冊子にも繰り返し発表され、〈こけし手帖・24〉、〈鳴子・こけし・工人〉でも詳述されている。
このように、高橋勘治のこけしが確定され、それが明治期の作と分かったことはこけし蒐集史においても画期的な出来事だったのである。
おそらくこのこけしは子供の弄びものとして作られたものではなく、雛壇等に飾られるためのものだったろう。岡崎栄治郎の仙台屋の尺1寸と同様に、そうした上手物のこけしが各所に存在したということも一つの発見であった。

西田峯吉の勘治論考を載せた秋田亮刊行の冊子と〈古鳴子追想〉
西田峯吉の勘治論考を載せた秋田亮刊行の冊子と〈古鳴子追想〉

下の2本は橘文策旧蔵、〈こけしと作者〉序文で有名な「でたときにこうときなはれ」という女主人の言葉とともに、昭和4,5年頃橘文策が筒井郷玩店から買い求めた10本のうちにこの2本は入っていた。橘文策は〈鯛車〉の西田峯吉稿を見て、自分の2本も勘治作であると悟る、さらに戦後昭和25年実演に神戸三越に来た高橋盛に見せて、勘治作であることを確認している。その経緯は〈こけしざんまい〉に詳しく綴られている。
おそらくこの2本は、尺2寸のような上手物ではなく、勘治本来の玩具としてのこけしの姿と思われる。それでも勘治のこけしは決して素朴ではない、雅びていて味わい深い。
鳴子でこうした京風の艶やかかつ高雅な様式が完成されたということの背景はなお研究対象であり得る。

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〔25.8cm、20.9cm(明治末期)(橘文策旧蔵)〕

婢子会の写真の9寸の方の型も、近年いくつか確認されている。下の写真は天理参考館蔵のもの、平成20年春には東京の天理ギャラリーでも展示された。

〔25.2cm(明治末期)(天理参考館)〕
〔25.2cm(明治末期)(天理参考館)

下の写真も婢子会の写真の9寸とほぼ同種、カメイ美術館館蔵のもの、カメイ美術館の「古作こけし名品展」などでは展示される。


〔24.8cm(明治末期)(カメイ美術館)〕

ここに写真で掲げたものの他に、大正期に入って作られた8寸以下のこけしで勘治一家と称する一群のこけしがある。この時期、勘治は主に椀や盆を挽き、盛や勘四郎がこけしの木地を挽いて、盛、勘四郎、あるいは盛の妻女きくゑなどが描彩していたが、勘治も気が向くと描彩に加わることがあったという。大正期のこうしたこけしの一群には勘治の手の関わったものが混じっている。ただし、いづれが勘治の手であるか鑑別することは難しい。

勘治のこけしは多くの工人に影響を与え続けた。勘治型の復元を試みる工人は多い。
高橋盛、高橋盛雄、遊佐福寿、高橋敏文、森谷和男、滝島茂、高橋輝行、高橋正子、高橋義一、柿澤是隆、柿澤是伸、柿澤眞里子など多くの工人が、勘治型あるいは勘治一家のこけしを継承している。

系統〕 鳴子系利右衛門系列

〔参考〕

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