寺沢政吉(てらさわまさきち:1885~1967)
系統:南部系
師匠:松田清次郎
弟子:寺沢省一郎/寺沢七郎
〔人物〕 明治18年3月20日盛岡に生まれる。明治31年14歳より盛岡の松田清次郎に師事した。煤孫茂吉、坂下権太郎は兄弟子である。師匠の清次郎は明治33年に肺患のため31歳で亡くなった。兄弟子であった煤孫茂吉は清次郎没後花巻に帰って独立したが、残された清次郎弟徳太郎や、安保一郎は後見となった茂吉について木地を学んだ。寺沢政吉は徳太郎らが一人前になる明治43年頃まで約10年余の間松田木工所を支えて働き、その後盛岡市の馬町で独立した。開業した寺沢木工所では、各種木地製品の他に桑の木を用いたキナキナの製作を行った。
下に示した写真のように、昭和5年に発行された武井武雄の〈日本郷土玩具・東の部〉で盛岡キナキナ坊の製作者として、松田徳太郎と並んで紹介されている。
また昭和12年には川口貫一郎主宰の東京こけし會が発行した「こけし作者一覧番附」に東の方の前頭として名前が掲げられている。だだし木地の仕事はそれほどたくさんは無かったので、寺沢政吉は近所の活動写真館のフィルム廻しの仕事などをよくやっていたという。
長男の省一郎は戦前より父に就いて木地を修業、末子の七郎も子供の頃から見様見真似で木地を挽いていた。
昭和25年、七郎はスキー好きが高じて自らスキーの板の製作を始め、国産スキーの草分けとして繁盛するようになったので、寺沢木工所は寺沢スキー製作所となり、七郎のスキー製作が主体となった。しかし、政吉は昭和42年4月78歳で亡くなるまで木地業を続け、轆轤に向かっていたという。
〔作品〕 寺沢政吉の名前は早くから知られていたが、政吉の作品がどれであるかは殆ど明確になっていなかった。生前作品に署名をすることが殆どなかったこともその一因かもしれない。〈こけし辞典〉では、寺沢政吉の項目で「誰も追求するものなく作品未確認であるのは残念である」と書いている。
しかし今日では何本かの寺沢政吉作のキナキナが確認できている。まず福島の西田記念館にある。胴の用材ははっきりしないが頭部は桑で作られている。これらは東京青山の郷土玩具店「三五屋」で商われたものという。
〔右より 14.5cm、14.1cm(昭和8年ころ)(西田記念館)〕
下に示すのは鈴木康郎蔵の政吉作、頭部、胴ともに桑で作られている。特に政吉のキナキナは頭部に桑の用材の白めの部分と茶褐色の部分を併存させたものが多い。写真では、鈴木蔵、西田蔵それぞれの頭部左側が白めの部分になっている。
この他に、箕輪新一蔵の寺沢政吉が3本ほどあり、古いコレクターの盛岡産作者不詳キナキナの中には寺沢政吉のものが、かなり存在する可能性がある。
寺沢スキー製作所時代の「きなきな坊っこ」の由来を見ると、桑には萬病除けの効能があり、昔は南部家の若君・姫君誕生の折に、桑の頭のキナキナを献上したと書かれている。藩の上級武士の間でも出産祝いの添え物とする習が出来、やがて一般民家にも広まったという。幼児が成長し、他家に養子縁組で出たり、嫁入りする時には、生年月日・氏名をキナキナに書き入れ、へそのおとともに持たせてやったものだともいう。
キナキナは幼児の歯がためと同時に、こうした縁起物でもあり、こけしとは違うという認識が寺沢の家にはあったようである。これが、寺沢政吉がこけし作者としてあまり知られなかった一つの背景であったかもしれない。
その作品は、すっきりとして極めて美しい。松田の後継者たちのキナキナと基本的には同じであるが、用材に桑を好んで使うところと、胴下端の地に着く部分(俗にいうこけしの高台あるいは畳付)のシンプルな形に特徴がある。
なお、頭部に桑の木を使うことは岩谷堂の佐藤七之助も強く語っていたから、南部キナキナの古くからの伝承だったのであろう。
〔系統〕 南部系 後継者に寺沢七郎がいる。