松田清次郎

松田清次郎(まつだせいじろう:1870~1900)

系統:南部系

師匠:安保彌次郎/安保彌市郎

弟子:煤孫茂吉/寺沢政吉/坂下権太郎

明治3年2月22日、岩手県南岩手郡東中野村穀町(現在盛岡市内)の松田和助、ヒサの長男に生まれた。松田家は代々常陸屋と号し、初代は仁兵衛(天保15年没)、二代和七(安政4年没)、三代が父和助で、和助は呉服の行商などをやっていた。
母ヒサは小原勘蔵の二女、また盛岡の木地屋安保弥次郎の妻ナヲは小原勘蔵の三女で姉妹であったため、清次郎は、安保弥次郎(戸籍表記は彌次郎)およびその父弥市郎(戸籍表記は彌市郎)について木地を修得した。木地製品は注文によりなんでも作り、キナキナも作ったという。「穀町の木地屋」と呼ばれたらしい。しかし、その他の玩具を作る伝統は盛岡にはなかったという。弟子には、煤孫茂吉、寺沢政吉、坂下権太郎が知られている。
南部における一人挽きは清次郎と茂吉で工夫したといわれている。茂吉が弟子に入ったとき、ロクロの心棒を注文しに盛岡鉄道局に行き、ここで見た西洋鉄工旋盤からヒントを得たといわれている。明治28年小原熊太郎長女トクと結婚し、明治32年に長男精一が生まれた。
清次郎は肺患にかかり、明治33年1月21日午前10時31歳で没した。したがって、弟の徳太郎は、後見となった茂吉より木地を習い、長男精一は徳太郎より木地を習った。松田家のことについては〈こけし手帖・60〉で触れられている。

下掲は松田家にのこる安保彌市郎の描いた木地寸法帳(元治元年七月)。


木地寸法帖 (盛岡松田家蔵) 中央右下に「安保彌市郎」の名がみえる

孫の松田弘次によるハズミ車応用足踏みロクロの実演

盛岡のハズミ車応用足踏み旋盤は、明治23年に日本鉄道が盛岡まで開通した直後に、松田清次郎と煤孫茂吉が、その盛岡車両修繕工場で、西洋のハズミ車の付いたミシン式の足踏み旋盤を見たことが契機で、それをもとに二人で工夫して開発したものだった。

松田弘次の実演   東北文化財映像研究所ライブラリー映像館 

〔参考〕

  • 露木昶:あれから八年ー岩手のこけしー〈こけし手帖・60〉(昭和40年8月)
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