新山久治

新山久治(にいやまきゅうじ:1888~1969)

系統:弥治郎系

師匠:新山久治郎

弟子:新山久志/新山茂

〔人物〕  明治21年8月19日、宮城県刈田郡八宮村(現在白石市弥治郎)新山久治郎・さとの長男に生まれる。弟に久之助、勇、福太郎、左内がいたが、久之助、勇は夭折した。
久治の家は祖父久蔵が、文久元年に新山友蔵家から分家した家、友蔵家は白石藩主片倉家から知行書を受けていた家で、友蔵も鹿打竝木地挽の賞詞を受けている。新山栄五郎の祖父栄吉は、久蔵の兄に当たる。
祖父久蔵も二人挽きで木地を挽いていたが、父久治郎の代に、遠刈田の佐藤周治郎から足踏みを学んで帰った同村の佐藤栄治より足踏みの技術を習得していた。
久治は父久治郎について木地を修業、こけしも作った。
大正4年に長男久志が、大正9年に次男茂が生まれた。
久治のこけしを最初に紹介したのは〈こけし這子の話〉であるが、その図版解説は「新山久郎型」となっていて、〈日本郷土玩具・東の部〉で久治として正しく紹介された。
昭和5年から、小学校を卒業した長男久志に、昭和10年から次男茂に木地を指導した。ほとんど他出せず、弥治郎に落ちついてこけしを作り続け、弥治郎に新山型という様式を定着させた。峻厳な雰囲気と、旺盛な意志力を感じさせる工人であった。盆栽を趣味とした。昭和42年には宮城県知事より県の産業功労者として表彰を受けた。
昭和44年4月11日弥治郎にて没した、行年82歳。

新山久治 昭和40年3月

新山久治 昭和40年3月

〔作品〕  最初に写真で紹介された〈こけし這子の話〉では、下掲写真の久治とそのとなりの福太郎を、新山久郎型と解説してあった。久治郎家のこけしという意味での久治郎型の誤植であったかもしれない。大振りの頭と直線的な胴とのバランスが美しい。鬢飾りは状である。

〔22.6cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション
〔22.6cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション 〈こけし這子の話〉所収。

久治のこけしを正しく久治名で紹介したのは武井武雄〈日本郷土玩具・東の部〉であった。武井武雄は、久治を高く評価して、同書に「黄を主色となし桃色を配して黒で引き締めた効果は特挙すべく、轆轤描彩でこれ程面白いものは他に類例が見出せない」と書き、また後の〈こけし愛蔵図譜〉の解説には、 「筆者は久治のこの一本に対して限りなき愛着を覚え、著名工匠大野栄治をはじめとして他の弥治郎作者より一枚上に買いたいと思う」 とまで書いている。 特に黒で締めた帯が気に入っていたようである。

〈こけし愛蔵図譜〉の新山久治 武井武雄版画
〈こけし愛蔵図譜〉の新山久治 武井武雄版画

下掲の尺5寸5分は鳴子の深沢コレクションのもの、これとほぼ同寸の久松保夫蔵品の二本が昭和53年の神奈川県立博物館「こけし古名品展」に並んだ。
昭和6、7年頃までの久治の鬢の飾りは概ね耳のように描かれるが、この久治は例外的に三本線で描いてある。ただし、眉、目の雄渾な筆致は昭和初期のものである。

〔46.4cm(昭和8年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔46.4cm(昭和4年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

下掲は昭和6年8月29日と旧蔵者の入手年がはっきりしているもの。鬢飾りは耳状に描かれており、この時代までの特徴である。蒐集家は「耳の時代」と呼ぶ。襟の描線の微妙なたゆたいが面白い。

〔24.5cm(昭和6年8月)(橋本正明)〕
〔24.5cm(昭和6年8月)(橋本正明) 〕石井眞之助旧蔵

昭和一桁の時代は胴のロクロ線の下に描かれる裾模様が、上端が接し左右が直線状に開かれて描かれるが、昭和10年以降になると「川」の字状に上端が開く様になる。

戦後も間断なく製作を続けたが、その描彩は年代によって微妙に変わっている。たとえば胴下も三本の裾模様を描く場合、戦前は上端が接して直線的に、戦後は上端開いてやや裾下端が開くように描かれる。

〔30.3cm(昭和26年)(高井佐寿)〕
〔30.3cm(昭和26年)(高井佐寿)〕

昭和29年にはまぶたが長く上に開き、鋭く眼点を入れた時期があって、中屋惣舜はその時期を戦後のピークといった。

系統〕 弥治郎系新山系列

〔参考〕

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