国分陞

国分陞(こくぶんのぼる:1945~)

系統:弥治郎系

師匠:国分栄一

弟子:

〔人物〕戸籍表記は國分である。國分陞は昭和20年3月9日に國分栄七、十二日(とにか)の五人兄弟の末子(男2人・女3人)として白石市に生まれた。兄は榮一、鎌田文市の妻さくよは叔母(栄七の妹)にあたる。陞の祖父徳治の兄寅吉の息子が新山栄五郎の一番弟子となった國分惣作であった。陞は学校卒業後、衣料製造会社に勤めた。昭和56年、36才の頃から兄榮一の工房に通いこけしの試作を重ねた。こけしは販売される事無く、ごく一部の蒐集家に渡ったのみである。昭和58年、38才の時に胃がんのため全摘出手術を受けた。術後も体力は完全には回復しなかったので、以後こけし作りは断念した。その後も入退院を繰り返したが、平成27年12月23日、享年71才で没した。

左 國分陞 右 國分榮一

 〔作品〕こけしは2年間しか作っていないので、現存するものは非常に少ない。佐藤勘内型と鎌田文市型の2種を製作した。勘内型は榮一と見分けがつかぬ程の鋭い筆遣いである。署名をしない事が多く、あるいは榮一の作品の中に陞の作品が紛れ込んでいるかも知れない。清水寛氏の〈こけし全工人の栞〉には「兄国分栄一よりの見取りにて昭和56年頃に自挽き木地に描彩した小寸のこけしを若干作った。稚拙ではあるが剛直粗野な風格を備えたこけしであった」と記載されているが、稚拙と云うよりむしろ巧みな作品といえる。高井佐寿著〈伝統工芸 東北のこけし〉に掲載の2本は撮影用に陞から借りたとの事であるが、快作であり資料としても貴重である。妻のひでことは昭和43年12月に結婚して二男に恵まれた。ひでこによると性格はおとなしく、優しく家族思いの夫だったという。こけしに限らず集中して物作りする事を好み、こけしは小寸だけでは無く6寸、7寸も手掛けたようだ。面描は榮一に比べ目の間隔が若干広いのが特徴との事である。
製作期間は一時期であったが、兄の国分栄一と同様にこけし製作のセンスは良く、弥治郎本来の情感を十分表現できた作品であった。若くして病を得て製作を断念した事は残念である。


〔右より 11.8cm、17.7cm(昭和56年頃)(高井佐寿)〕


〔右より鎌田文市型(11.2㎝)、佐藤勘内型(11.8㎝)、鎌田文市型(17㎝)、佐藤勘内型(18.2㎝)、佐藤勘内型(13.4㎝)(昭和56年頃)(中根巌)〕 

〔伝統〕弥治郎系栄治系列

 

 〔参考〕

  • 中根巌:國分陞〈伊勢こけし会便り・172号〉

 

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