新山純一

新山純一(にいやまじゅんいち:1953~)

系統:弥治郎系

師匠:新山慶美

弟子:

〔人物〕 昭和28年6月1日、白布高湯新山慶美の長男に生まれる。子供のころより父慶美について木地の手ほどきを受けていたが、昭和40年13歳ころよりこけしも作るようになり、昭和41年夏ころより純一名義のこけしも店頭に並べるようになった。昭和47年高校を卒業後、横浜のダイエーで1年間働いたのち帰郷して、昭和48年から店を手伝いながらこけしの製作も行うようになった。大きな発展は昭和52年の〈こけし這子の話〉掲載の祖父新山慶治の復元からで、形態バランスよく、緊張感のある華麗なこけしを作るようになった。
平成15年父慶美が亡くなった後、平成18年頃木地業を離れて白布高湯から米沢に移った。その後はコンビニエンスストアで働いていたという。非常に腕のある工人であったので、その転業は惜しまれる。


左:新山慶美 右:新山純一


左:新山純一 右:新山慶美 昭和54年 撮影:生田目忠夫

〔作品〕 昭和41年頃から店頭に出したが、中学高校在学中であり、その数は多くない。下に掲載のこけしは昭和45年に〈こけし辞典〉に載せる写真用にわざわざ作ってもらったもので、胴底には17才と墨書が入っている。当時の慶美の作風に従ったこけしであった。
〔17.8cm(昭和45年10月)(橋本正明)〕
〔17.8cm(昭和45年10月)(橋本正明)〕

昭和52年に行った〈こけし這子の話〉掲載の祖父新山慶治復元の経緯は、その復元を促した北村勝史によって次のように報告されている。

〈こけし這子の話〉図版六の佐藤慶治 「私は以前から、左の図の『這子の話』の慶治に執着をもっていた。何とか木地形態だけても残せぬものかと、昨今の弥治郎系木地の低調ぶりを横目で見つつ思案した結果、本年年初に慶治の直系である慶美、純一父子に相談を持ちかけた。勿論、現在の作行を乱すことのないよう強制抜きの話である。 結果、純一が慶治を研究したいということで話がつき、2月13日に白布に登った。翌14目早速、慶美一家の見守る内、7寸、8寸、9寸5分各3本の試作が出来あがった。 寸法書きと、写真を手本にしての木地描彩にしては大変な出来映えである。純一本人も家族も満足してくれ、私も肩の荷のおりる思いがした。本人を前に失礼だが、従来の作とは雲泥の差の佳作の誕生だと思っている。こけしにとって、木地形態の重要さがこの佳作誕生をもって証明することができたのである。
2月14日試作は、頭頂蛇の目は黒。面描はバチ鼻を中心に、前髪飾りは中央が紫、緑、紅の順。カセは省略。胴は白地に伝喜風の旭菊。木地形態も良好。
5月上旬の第二作は、量感溢れる快作。二段筆の鬢。前髪飾りの色彩感が豊かになり、雄大なカセ等にも改良が見られる。後頭部にはサンバラに黒髪が入る。胴の地は黄色が入り、胴横様を引き立たせている。頭頂の蛇の目は紫。やはり弥治郎の蛇の目は紫が良い。木地形態も一段と良い。(北村勝史〈木の花・第拾四号〉戦後の佳作)」

ここに示す写真は昭和52年5月作。頭頂の蛇の目は北村の指摘のように紫であり、鬢も確かに二段描きになっている。戦後の最良の弥治郎系こけしの一つであろう。

〔21.0cm、29.2cm(昭和52年5月)(橋本正明)〕
〔21.0cm、29.2cm(昭和52年5月)(橋本正明)〕


〔 25.0cm(昭和56年10月)(田村弘一)〕

曽祖父幸太が佐藤茂吉の弟子であったことから茂吉型も作った。


〔 18.2cm(平成5年頃)(ひやね)〕  茂吉型

〔伝統〕 弥治郎系幸太系列 幸太-慶治-慶美-純一

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