みずき会は古いこけしのうちで製作年代の特定や、親子・師弟間での作者識別等に比較的問題の多いものをピックアップし、その作例を出来るだけ多く集めて比較研究することを目的として、昭和36年から昭和42年にかけて活動した同人制のグループである。
第1回は、昭和36年6月23日久松保夫邸で開かれたこけし研究会と思われ、高橋胞吉、鈴木清の作品を検討した。その後38年3月まで少しブランクがあったようであるが、以降40年9月までかなり頻繁に研究会が開催されたようである。もともと会の開催要件として膨大な久松コレクションが毎回自由に開放され、同人がそれぞれこけしを持ちより、毎回テーマを決めて年代変化を中心に研究会を行ったものである。この時期には自ら蒐集したこけしを進んで見せない人も多く、むしろ珍品を秘匿するような傾向が強かった中で、久松コレクションの開放はこけし界に大きな励みとなり、その後のこけし文化発展に寄与したと思われる。
「みずき会」の名前は初期の頃にはなく、正式にみずき会の名称を用いたのは昭和38年10月27日に久松邸でおこなわれた、第9回目の小椋久四郎、久太郎研究会の時からである。
この時の記録には次のように書かれている。「会の運営の件: 本会を仮称『みずき会』と名づけ、当分の間定められた数の同人でもって研究を行う。また、従来の研究成果をまとめて印刷し、希望者に限定頒布する。会の世話は浅賀、会計中屋、資料配布は、柴田が担当する事にした。」
当初の同人は、浅賀八重子、小野洸、川村邦夫、鹿間時夫、柴田長吉郎、白鳥正明、武田利一、竹内茂、土橋慶三、中沢鑅太郎、中屋惣舜、西田峯吉、久松保夫の13名であった。後に矢内謙次、北村勝史が加わった。
みずき会は昭和39年3月に〈こけし研究ノート〉を発刊し、昭和41年2月までに12冊の研究成果を発表した。昭和39年8月の上半期決算報告によれば、冊子は160部印刷し、予約は138部あり、同人分13部と合わせて、151部が配布された。
従って会場は毎回久松邸であったが、昭和40年に久松保夫の木偶坊の移転や会員転住等があり、会場を新宿区柏木の白鳥正明邸に移し3回ほど開催されたが、昭和42年後半に自然消滅した。
研究会記録は以下の通り
- 高橋胞吉、鈴木清(昭和36年6月23日)
- 阿部治助(昭和38年3月3日)
- 岩本善吉(昭和38年3月24日)
- 佐藤丑蔵(昭和38年4月7日)
- 佐藤文六・佐藤誠治(昭和38年5月26日)
- 西山勝次・西山賢一・斉藤太治郎(昭和38年7月21日)
- 大内今朝吉・大内一次・阿部金蔵・阿部広史・阿部金一・阿部シナ(昭和38年9月1日)
- 渡辺幸九郎・渡辺幸治郎・佐藤勘内・佐藤雅雄(昭和38年9月29日)
- 小椋久四郎・小椋久太郎(昭和38年10月27日)
- 小林倉吉・小林清蔵(昭和39年1月19日)
- 佐藤直助・佐藤松之進(昭和39年2月2日)
- 岡崎栄作・岡崎嘉平治・斉藤源吉・斉藤源七(昭和39年3月1日)
- 平賀一家(昭和39年6月7日)、(昭和39年6月21日)
- 奥山運七・奥山喜代治・鈴木幸之助・斉藤伊之助(昭和39年8月30日)
- 高橋忠蔵・渡辺角治(昭和39年10月4日)
- 阿部常松・阿部常吉(昭和39年10月25日)
- 佐藤栄治・佐藤喜一(昭和39年12月20日)(昭和40年1月24日)
- 菅原庄七・藤原政五郎(昭和40年7月25日)
- 高橋武蔵・高橋武男(昭和40年8月29日)
- 佐久間由吉(昭和40年9月26日)
その他、昭和41年から42年にかけて「佐藤誠略歴」、「岩谷堂こけしについて」が白鳥正明から報告された。
なお、〈こけし研究ノート〉に記載されなかったのは4、佐藤丑蔵、 6、西山勝次・西山賢一、 7、大内今朝吉・大内一次・阿部金蔵・阿部広史・阿部金一・阿部シナ 8、渡辺幸九郎・渡辺幸次郎・佐藤勘内・佐藤雅雄 12、岡崎栄作・岡崎嘉平治・斉藤源吉・斉藤源七 14、鈴木幸之助・斉藤伊之助18、菅原庄七・藤原政五郎 19、高橋武蔵・高橋武男 20、佐久間由吉などである。
以上、久松氏のメモや白鳥文書よれば20回に及ぶ研究会であるが、或いはカウントされてない集まりがあつたかも知れない。また各回の研究成果は柴田長吉郎を中心に細かく記載され、みずき会研究記録として、青焼きプリントして同人に配布され、更に年代別にこけしの写真を撮影した。また7回(大内今朝吉などの回)以降は本文に写真番号などを入れ、よりわかり易くなっている。特に〈こけし研究ノート〉に記載されなかった回の写真は貴重であろう。
こけしの年代変化は、昭和初期の天江・武井時代にはほとんど扱われることはかつた。橘文策は〈木形子談叢〉の中で古型とか、数年前の作などとして、新旧のこけしを比較しているが、まだ本格的な年代変化ではなかった。科学的に同じ作者の新旧を木地の違い、形態描彩で見せたのは〈鴻〉で、その後〈古計志加々美〉等では古作の優位性を解説した。
その意味で、みずき会は戦後の年代変化解析の中心的存在であった。それ以降こけしの研究は年代変化が大きく取り扱われることになり、〈こけし手帖〉では70号以降中屋惣舜などみずき会メンバーが中心となり、こけしの変遷を語った。これに続くように、井の頭こけし研究会、初期談話会、〈木の花〉の連載覚書など年代変化や作者鑑定の研究がこけし研究の中心課題とされるようになった。これはこけしの年代的変遷の理解や作者の特定といったこけし鑑定には大きく資する所があったことによる。古品、中古品の流通の仕組みが定着したことによって入札等での価値の査定が収集活動で重要になったという背景もある。しかし反面こけしの本質、こけし文化の継続、木地師、風土、復元などの観点から遠く離れてある意味で一部マニア中心の隘路に入っていったことも否めない。