渡辺幸九郎(わたなべこうくろう:1892~1953)
系統:弥治郎系
師匠:新山栄五郎
弟子:
〔人物〕明治25年11月3日、宮城県弥治郎の渡辺幸六、みんの次男に生まる。渡辺幸治郎は長兄。明治35年11歳のとき、生家上屋敷より白岩屋敷へ移る。
明治39年15歳より新山栄五郎について木地を習得、明治45年21歳で年期明け後、白岩屋敷で兄幸治郎とともに木地を挽いた。
大正6年26歳のとき、弥治郎を去り、米沢桂町の中沢安次郎木地屋の職人として働いた。このとき、中沢工場では橋本繁、石沢角四郎、北村辰三が共に働いている。
一年ほどで中沢木地屋が倒産したので、米沢市東町藤倉栄三郎方の職人となり一年間働いた。米沢時代は織機の部品を中心に挽いた。
大正8年28歳より及位落合滝の新及位製材所に伊藤泰輔の紹介で入り、深瀬国雄、武田弘、神尾長八、大宮安次郎、柏倉勝郎などとともに、ブナ材の椀類を挽いた。及位時代に及位出身のトリイと結婚。この工場は菅原兵衛、姫木広吉、柴田太郎が経営したが、大正9年ころに一時失敗し、幸九郎はこれを機会に、兄の独立していた下ノ原へ帰った。
約6年間、下ノ原の幸治郎のもとで働いたが、幸治郎が身体を悪くして白石町字新町へ移ったので、幸九郎は下ノ原で独立開業した。下ノ原独立時代より収集家の注文を受け、こけし製作を再開した。
昭和7年下ノ原より鎌先に転居し、〈木形子研究〉により作者として紹介された。第一次こけしブームのときには、鎌先の作者として雅雄とともに活躍し、こけしも多く作った。終戦近くまで木地業に従事していたが、戦後の作品数は多くはなかった。昭和28年6月2日鎌先にて没した、行年61歳。
〔作品〕 渡辺幸治郎と幸九郎についてはかなりの混合があり議論があった。下掲の3本の写真の右端は一時幸治郎作といわれたこともあり、同種の久松保夫蔵品が〈こけしの美〉には幸治郎作で掲載されている。3本の左端は明らかに幸九郎作であり、両端のこけしの面描に多少の差があることから、右端のこけしを幸九郎に見せたところ「自分の作ではない」といい、鎌田文市に見せたところ「幸治郎のこけしだ」と言ったということが根拠になっている。このいきさつは〈鴻・7〉で紹介された。
しかしながら、天江コレクション中に渡辺幸治郎作があり、〈こけし這子の話〉でも紹介されているが、そのこけしは右端のものとは全く別種のこけしであり、また橘文策も幸治郎のこけしを「一度見たいものだ」と〈こけしと作者〉に書いているので、橘旧蔵の右端、および〈こけしの美〉に掲載された久松保夫蔵は今では幸九郎の旧作と考えられている。
右2本は、橘文策が昭和6年に現地を訪れたときに直接入手したもの、左端は〈木形子研究・1〉の頒布のために昭和7年3月に幸九郎から送られてきたものだと思われる。
〔右より 22.9cm、9.5cm(昭和6年)(北村育夫)、23.4cm(昭和7年頃)(石井政喜)〕 右2本は下ノ原時代で橘文策旧蔵、左端は〈こけしと作者〉に掲載されたもの
〔右より 20.8cm(昭和7年頃)(橋本正明)、24.5cm(目黒一三)(昭和7年頃)ともに木形子洞頒布〕
昭和7年以後、鎌先時代になると、栄五郎後期の作風に影響をうけ、豊かな形態に大味の面描を施している。仕上げはやや荒く、ロクロ線太くなっており、色調は派手である。
下掲は深沢コレクション中のもの、首に襟巻きのない幸九郎は珍しい。
〔 24.3cm(昭和10年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
昭和12~15年頃には額の半円状の模様の替わりに、額に前髪状の描彩を加えるものが有った。
〔右より 22.7cm(昭和15年頃)(鈴木康郎)、18.0cm(昭和17年頃)、26.5cm(昭和15年)(目黒一三)大は寺方徹旧蔵で胴底のシールに昭和15年の記入がある〕
下掲は珍しい戦後の作品。幸九郎の孫娘にあたる浅見和子蔵品。
〔系統〕弥治郎系新山系列
〔参考〕
- 鈴木康郎:「談話会覚書(14) 渡辺幸九郎のこけし〈こけし手帖・628〉(平成26年5月)
- 第88夜:「かゞ山」印のこけし(渡辺幸九郎): こけし千夜一夜物語Ⅱ