藤原酉蔵(ふじわらとりぞう:1861~1926)
系統:南部系
師匠:藤原千太郎
弟子:藤原政五郎
〔人物〕 文久元年12月8日、岩手県稗貫郡糠塚村に生まれる。長兄は高橋市太郎。明治15年12月22歳で、稗貫郡湯本村大字湯本(五郎城)の農業・木地業藤原千太郎の長女チヱと結婚して、千太郎・ユミ夫婦の婿養子となった。千太郎の家は代々佐兵衛を家名とし、農業の傍ら木地を挽いていたらしい。明治16年に長男政五郎誕生、子供には恵まれ、6男2女を得た。
酉蔵は養父千太郎より木地を学んだと思われる。ただ秋田方面から木地を覚えてきたという説もある。明治26年に父千太郎が亡くなり、酉蔵が家督を継いだ。木地は長男政五郎に教えた。
酉蔵は当時、盛んに作られていた花巻和傘のロクロ(傘の柄をとおす輪になった部分)を主に挽いたようである。また夏季には台温泉で土産物の木地製品を作っていた。台温泉では鳴子の工人も何人か来て木地を挽いていた。
大正になって鳴子の工人が去ると、台温泉のオヨウ婆さん(姓不詳、宮城県古川の産という)は酉蔵、政五郎親子を招いて、台温泉で土産物のこけしや独楽などを積極的に挽かせるようになった。
大正15年10月1日に五郎城で没した、行年66歳。家督は長男政五郎が継いだ。
〔作品〕 橘文策の聞書きによると、藤原家では政五郎の六代前の佐兵衛の時からこけしを作っていたという。政五郎の三代前の千太郎父庄作が文政3年(1920)生まれであるから、六代前の佐兵衛は宝暦年間(1751~1764)ころと思われ、この時代にこけしが作られたとは考えにくい。作っていたとすれば純粋のキナキナのことであったかも知れない。
おそらく、目鼻を描くこけしを製作する様になったのは酉蔵の代になってからのことと思われる。酉蔵作と推定されるこけしは3本ほど知られている。
下掲写真は、石井眞之助旧蔵のもの。〈こけし手帖・69〉で藤原酉蔵として紹介された。
〔 22.0cm(明末正初)(石井眞之助旧蔵)〕
目は単純な一筆、曲線の鼻、そして顔の下部にはあごの線が描かれている。
下掲の2本は、天江コレクションにあったもの。石井眞之助蒐集品と全く同型である。ただ胴の保存は幾分よく、右側のこけしの胴には赤と緑のロクロ線が入っているのを確認できる。
また口には赤色を用いているように見える。
胸が膨らみ、胴下半が直胴になるこの形状、そして赤と緑のロクロ線は後年の藤原政五郎作と全く同一であり、これが酉蔵作であることの決め手となった。
〔右より 21.5cm、18.8cm(明末正初)(高橋五郎)〕天江富弥コレクション
このこけしの来歴について豊沢にて入手との説があるが、詳細はわからない。
藤原酉蔵、政五郎父子は明治から大正にかけて夏季には台温泉で土産物用の木地製品を作っていたといわれているから、そこで作ったこけしが何らかの過程を経て天江富弥の手に渡ったものであろう。
このこけしの型のルーツについても、明確には判明していない。台温泉では、明治初期には鎌田千代松が木地を挽いてこけしも作り、また明治36年以降は大沼岩蔵はじめ多くの鳴子工人もこの地に来て木地を挽いたが、酉蔵のこけしに対する千代松や鳴子こけしの影響は顕著ではない。花模様は描かれないし、頭部に水引等の飾りも描かれ」ない。
おそらく、鳴子工人が来る以前に、台や志戸平ではキナキナから簡単な人形への移行(こけしへの移行)が既に起きていたのであろう。
この藤原酉蔵および鉛古こけし(佐々木要吉)は、南部でキナキナからこけしへの進化を考える上で重要な資料である。
〔系統〕 南部系