佐久間由吉

佐久間由吉(さくまよしきち:1872~1960)

系統:土湯系

師匠:佐久間浅之助/膽澤為次郎

弟子:佐久間芳衛/平栗馬吉

〔人物〕  明治5年6月7日、福島県信夫郡土湯村下ノ町8番地の木地業湊屋佐久間浅之助、ノエの長男に生まれる。粂松(久米松)、常松、フジ、キチ、源六、七郎、米吉、ハナ、虎吉の長兄にあたる。
明治16年(12歳)のころより、父浅之助について木地の修業を始めた。明治18年4月、静岡県出身の膽澤為次郎が土湯にきて一人挽き(足踏みロクロ)の技術を伝授することになったので、その作業場となった米殻商加藤屋の二階に通って、約3ヵ月間新技術の習得に努めた。
由吉は西田峯吉の聞書きに応えて、この時のことを次のように語っている。
「膽澤為次郎は箱根の木地師で、土湯で初めて一人挽きを入れた人だ。盆類製作には優れた技術を持っていたが、こけしは知らなかった。流浪の生活をした人である。佐藤兵吉(加藤屋)の家の一部を借りてロクロを据え指導した。そのとき、為次郎から教えを受けた人たちは、佐藤兵吉、佐藤嘉吉、西山辨之助佐久間由吉阿部金蔵、渡辺久吉(作蔵の長男)、斎藤太治郎の7人であった。太治郎は兵吉の家で習った時30日位来たように思う。為次郎が第1回に土湯に来たのは自分が14歳のときで、第2回はそれから20年後であり、土湯から飯坂の山根屋に行って盆を挽いた。〈福島こけし会 木でこ・3〉」
(注:加藤屋の佐藤兵吉は天保2年生まれ、為次郎が来たときは未だ家督であったが、年齢55歳、従って兵吉は場所の提供者であり弟子になったのは2男嘉吉だけであろう。また別の聞書きでは阿部熊治郎も習ったという)
明治23年8月土湯は大水害に見舞われ、湊屋も大きな打撃を受けた。父浅之助はその立て直しを画して木材事業に乗り出した。一方、由吉は木地の腕が立ったので福島市内の洋家具店「唐木屋」の木地を一手に引き受けるようになった。福島市の書家梅津与作の取り持ちで、明治29年3月渡辺作蔵の長女フミと結婚して福島に出て独立し、北町で木地工場を開設した。明治31年に長男芳衛が誕生。
明治32年頃、岳温泉の豆腐屋平栗馬吉に頼まれて、岳に行き約半年ほどその職人をしたこともあったという。馬吉はこの時に木地を学び、やがてその技術は大内今朝吉に伝承される。
由吉は福島では洋家具の部品を挽くかたわら、要請を受けて刑務所の服役囚に技術の指導を行ったりもした。
また〈土湯木でこ考・4〉によれば、中年のころには山歩きに興味を持ち、山師的な生活をしたこともあったという。土湯の近くの山で硫黄鉱脈を発見し、その山の権利が山根屋のものであったので、山根屋の義兄久吉に家を建ててもらったこともあったらしい。
由吉の実家の湊屋は、浅之助の努力にもかかわらず、荒川に蓄えていた材木を、明治36年の大水害で全て流失させてしまった。50代半ばを過ぎていた浅之助は、ついに再起がかなわぬことを悟り、一家で土湯を去ることにした。明治38年、浅之助は末子虎吉を連れて川俣に移っていったのである。
由吉は福島に出て以後こけしは殆ど作らなかったが、昭和10年東北帝国大学講師の中井淳に勧められてこけしの製作を再開、昭和13年4月に橘文策の〈木形子〉に紹介され、蒐集界に広く知られるようになった。
戦後もこけしの製作は少しづつ行っていたが、昭和32年に長男芳衛が60歳でなくなり、それを機に自分の足踏みロクロを解体した。その後、由吉は孫の芳雄の木地に面描をすることもあったが、昭和35年12月2日、89歳で世を去った。亡くなった後、作業場のリンゴ箱を開けてみたところ、挽き貯めた木地がなおかなり残っていたという話もある。

由吉の生まれた湊屋は亀五郎ー弥七ー浅之助と続く土湯こけしの本流というべき家であったが、二度の水害に被災し、明治30年代に一家は離散して土湯を離れることになった。
大正末から昭和の初め、蒐集家が土湯を訪れた時には、土湯に湊屋一族はなく、木地の仕上げも丁寧に、また描彩も装飾的に行う斎藤太治郎が居て、名工の名を欲しいままにしていた。昭和10年ころ、福島で由吉がこけしを復活した時に、太治郎の名声を聞かされて、太治郎に強い対抗意識を持った。自分が湊屋の直系であって、土湯の本来のこけしを作れるのは自分だけだという強い矜持を持っていた。由吉は、自分が正統な証拠には、自分の身体には赤まんまがあると言っていた。赤まんまは身体にある赤い点々とした痣のことだが、土湯には太子堂に聖徳太子像があり、それは秦河勝に聖徳太子自らが自分の血潮をかけてあたえたものという伝承がある。赤まんまはまた聖徳太子に繋がる聖性をも意味していたのである。聖痕としての赤まんまにも支えられた湊屋のプライドを背負って、復活した由吉はこけしを作り続けたのだった。

佐久間由吉
佐久間由吉


佐久間由吉 昭和16年10月 撮影:田中純一郎

〔作品〕 〈木の花・16〉の連載覚書は佐久間由吉を取り上げている。ここでは由吉の製作年代を次の5期に分けて解説している。

  • 初期 (昭和12年以前)
  • 第1期 (昭和13年~昭和14年前半)
  • 第2期 (昭和14年後半)
  • 第3期 (昭和15年以降~戦前)
  • 晩期 (戦後)

中井淳の勧めでこけし製作を再開したと言われているが、らっここれくしょんの由吉こけしは、昭和13年頃のものからである。三五屋の松下正影は昭和8年に福島の工人を訪ね、同年9月に一本30銭で販売したとの記録(販促用に葉書〈郷土玩具漫信〉)があり、橘文策はそれが由吉であったとしている。一方で〈続こけし閑談記録〉では8年に訪ねた後、2年たってやっと尺のこけしを送ってきたとあるから、由吉が三五屋で扱われたのは昭和8年か、あるいは10年であっただろう。下掲〈古計志加ゞ美〉掲載は三五屋の松下正影経由のものと思われる。


〈古計志加ゞ美〉原色版の佐久間由吉9寸1分

その時期と思われるものが、西澤笛畝等古い蒐集家の蔵品中には何本かあり、昭和53年に神奈川県立博物館で開催された「こけし古名品展」では、久松保夫旧蔵、石井眞之助旧蔵、中屋惣舜旧蔵の三本が復活初期のものとして陳列された。


〔左より 28.3cm(昭和8~10年)(西澤コレクション)、27.8cm(昭和8~10年)(中屋旧蔵)〕

この三本は描法少しづつ異なり、おそらく製作日が異なっていると思われるが、共通しているのは、胴模様が墨と桃色に近い淡紅色の二色を主体としている点、寸法がほぼ9寸から9寸5分までである点などである。中屋旧蔵は胴の下方に一本薄く浅黄色の線を入れている。三本の製作時期は、そう離れてはいないであろう。これらが三五屋で売られたものの可能性は高い。
いづれも面描大ぶりであって、古風であり、妖しげな表情は古浄瑠璃の情感を感じさせた。おそらく、復活当初であるから、製作を中断した明治中期、土湯時代の作風に近いものであろう。

〔27.0cm(昭和10年頃)(橋本正明)〕
〔27.0cm(昭和8~10年頃)(橋本正明)〕 初期 石井眞之助旧蔵

らっここれくしょんの由吉こけしは、昭和13年第1期のこけしである。表情は大ぶりで、初期の作品の余韻は残るが胴模様は緑や黄が加わり、波線状のロクロ模様や、稲妻形の装飾などが加わって華やかになる。赤は初期のような淡紅色ではなく、濃厚な色調になる。
木地の形は洗練され、頭部を受けて立つ胴とのバランスは美しい。

〔右より 24.8cm、27.7cm、14.8cm、24.8cm(昭和12年)(らっここれくしょん)〕 
〔右より 24.8cm、27.7cm、14.8cm、24.8cm(昭和13年)(らっここれくしょん)〕 第1期

橘文策旧蔵の写真掲載の作品は、〈こけしと作者〉図版のもの。「私の注文した大寸こけしにはたちばなの定紋を入れて来た。」と解説が付いていた。当時は「由吉の定紋入りこけし」と評判になったらしい。
この時期は、土湯の斎藤太治郎との対抗意識が一番旺盛であった時期であり、太治郎がマテで仕上げの良い上手物のこけしを作って評判だったのに対して、俺にもできると仕上げも丁寧に、定紋も描き加えて製作したものであろう。表情は生き生きとして健康的であり、胴もどっしりとして存在感のあるこけしである。

〔28.8cm(昭和13年3月)(目黒一三)〕 橘文策旧蔵
〔28.8cm(昭和13年3月)(目黒一三)〕 橘文策旧蔵 第1期

〔16.1cm(昭和14年1月)(鈴木康郎)〕 橘文策旧蔵品
〔16.1cm(昭和14年1月)(鈴木康郎)〕 橘文策旧蔵品 第1期

第1期は昭和14年の前半まで、下の写真の右側は中屋惣舜旧蔵で〈こけし 美と系譜〉掲載のもの。この時期の7寸は木形子洞で頒布されたもの、あるいはそれと近い時期の作であろう。左は第3期の作例。晩期へと続く表情のゆれが表れ始めているが、木地の形態やバランスはまだ良い。

〔21.6cm(昭和14年)、16.2cm(昭和15年)(橋本正明)〕
〔右より 21.6cm(昭和14年)第1期、16.2cm(昭和15年)第3期(橋本正明)〕

下掲の写真は深沢コレクションの第2期の作例。第1期の溌剌とした表情が、やや落ち着いて淡々とした表情になる。

〔21.5cm(昭和14年後半)(深沢コレクション)〕
〔21.5cm(昭和14年後半)(深沢コレクション)〕 第2期

下掲のこけしは西田蒐集品で〈こけしの美〉の原色版に掲載されたもの。表情明るく健康的な表情である。

〔 23.3cm (昭和14年頃)(西田記念館)〕
〔 23.3cm (昭和14年後半)(西田記念館)〕第2期

〈木の花・16〉では初期・第1期、第2期、第3期の鑑別は下図のように頭部の描法、カセの形で見分けられるという。カセの下の赤線の数が判別の目安となる。

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昭和15年くらいになると下の写真左端のように、息子の芳衛の木地に描いたものも作られるようになる。同じ15年でも自挽きの作とは、面描を少し変えているように見える。

戦後、晩期になると、木地の形は全体にずんぐりした印象になり、面描の筆致も硬く、表情の乏しいものに変わっていく。昭和27年頃には、芳衛木地に描いたものが多くあらわれる。

〔右より 24.2cm、19.6cm(昭和26年)(久松保夫旧蔵)、19.6cm」(昭和28年)(橋元四郎平旧蔵)、参考: 19・6cm(昭和15年)(久松保夫旧蔵)木地芳衛)〕 芳衛木地以外は晩期の作例
〔右より 24.2cm、19.6cm(昭和26年)(久松保夫旧蔵)、19.6cm(昭和28年)(橋元四郎平旧蔵)、参考: 19・6cm(昭和15年)(久松保夫旧蔵)木地芳衛)〕 芳衛木地以外は晩期の作例

土湯こけしは殆どツンケを描かない。ただ由吉にのみ下の写真のようにツンケを描いたこけしがある。

由吉のこけしのツンケ
由吉のこけしのツンケ(らっここれくしょん)

鹿間時夫は由吉を評してこう言っている。
「土湯こけしの古調をそのまま伝え、表情は浅之助ゆずりのアルカイックスマイルをもち、均整のとれたバランスのよさ、胴のロクロ模様の面白さなど、すばらしさは群を抜く〈こけし辞典〉」
由吉のこけしは弟たちのこけしと比べると、粂松の洒脱に対して正調、七郎の童子性に対して成熟、米吉の渋味に対して気品、虎吉の淡白に対して凝縮といった違いがあった。

系統〕 土湯系湊屋系列 亀五郎-弥七-浅之助-由吉-芳衛-芳雄-俊雄と続いた系譜。芳雄の弟子には渡辺和夫がいて、和夫の弟子たちも由吉の作風を継ぐ。

〔参考文献〕

  • 続こけし閑談記録 「土湯系こけし」閑談同人(昭和16年11月)
  • こけし手帖・47 名品こけしとその工人 「土湯の元祖を誇った佐久間由吉」 武田利一
  • 木の花・16 連載覚書 「由吉こけし」 こけしの会同人
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