斎藤松治(さいとうまつじ:1877~1948)
系統:蔵王高湯系
師匠:岡崎栄治郎
弟子:斎藤源吉/斎藤松助
〔人物〕 明治10年3月10日、山形県堀田村蔵王高湯の酢川神社別当斎藤勝治の二男に生まる。母は木挽きの娘であったという。戸籍表記は齋藤。酒造業斎藤源治の息子たち弘治、勝治、彦治、忠治のうち、長男弘治は作業中ガス中毒で夭折、しっかり者の忠治が本家を継ぎ、兄の勝治は道楽者のため分家をした。旧家の分家であったが、勝治の別当時代土地田畑を失ってしまった。
松治は、明治21年12歳で万屋の木地職人の阿部常松について木地を習ったが、2ヶ月で常松は高湯を去った。松治を弟子に取ったことで万屋藤右衛門と衝突し、常松は啖呵を切って飛び出したらしい。常松はその際、弟子の松治に自分の印絆纏を与えて、「何かあったらこの印絆纏を持って俺を訪ねて来い」と言ったという。松治は師匠を失って困ったが、能登屋の岡崎栄治郎について修業し技術を完成させた。
明治27年18歳で独立し、堀田村桜田の丹野フクと結婚した。フクは2歳年上であったが働き者で、宿を廻って製品を売り歩く「下げ売り」では土地一番の商売上手であったという。松吉、いせ、松助、福治、福太郎、治助の五男一女をもうけた。松吉は19歳で夭折、いせは生後すぐに没した。成人した福治は東京(金物業)、福太郎は小田原(玩具商)、治助は山形(洋服商)に他出し、残った松助が家業を継いだ。明治34年、従兄弟の斎藤源吉が弟子となった。明治40年31歳のとき自宅の三春屋にロクロを据えて、木地を挽くようになった。
大正元年には栄治郎が蔵王高湯を去って山形に移ったが、このころより松助も挽くようになった。大正14年兵役についていた松助が除隊して戻ったが、その年妻フクが死亡した。フクの死後は松助が代わりに「下げ売り」を行なった。松治はその後しばらくして、木地から離れ、遊戯場の経営を始めたり、旅館招仙閣を開業するなどした。
昭和15年春64歳のとき、収集家の依頼を受けて、こけし製作を再開した。〈鴻・1〉では、尺一寸の傑作が紹介された。その後注文に応じて少数こけしを作った。昭和17年9月と18年7月の2回、麻布霞町時代の「たつみ」がかなりの数のこけしを松治に注文して、そのこけしを頒布した。こけしの製作は昭和15年6月から昭和18年夏までの限られた期間であった。
昭和23年3月5日に没した。行年72歳。
松治は酒を好み、性格は豪放磊落であったという。酒は相手呑みで、一人では呑まぬが相手がいればいくらでも呑んだという。
〔作品〕下掲写真は〈鴻・第1号〉の口絵に掲載された二本。昭和15年に復活製作した初作である。右の名和旧蔵は〈こけしの美〉に、左の石井旧蔵(現在:箕輪新一蔵)は〈古計志加々美〉に再掲された。尺一寸余の大作で気品に富んだ快作であった。
〔右より 34.9cm(昭和15年6月)(名和好子旧蔵)、35.0sm(昭和15年6月)(石井眞之助旧蔵)〕 〈鴻・1〉図版
下掲2本は鈴木鼓堂旧蔵で、やはり昭和15年秋の作である。おそらく収集家秀島孜の要請によって松治が作ったものの内の2本であろう。長い休業の後の作であるが、木地のバランス、描彩ともに破綻はなく、蔵王高湯こけしの本領である重量感、上品な表情、濃密な情感を遺憾なく発揮している。左端の胴上部に描かれた涎掛けは阿部常松が土湯から伝えたと言われる。〈こけし 美と系譜〉掲載の鹿間時夫旧蔵の松治もほぼ同時期の作である。
〔右より 28.5cm、31.0cm(昭和15年秋)(鈴木鼓堂旧蔵)〕
昭和15年秋以降もこけしを製作したが、面描はやや細筆となり、生気が乏しい表情となった。
〔右より 21.2cm(昭和17年)、21.3cm(昭和17年)(植木昭夫)〕
昭和15年秋まで作と昭和15年12月以降の作との作品の出来には大きな落差があった。
武田利一は岡崎栄治郎と斎藤松治のこけしを比較して「碁にたとえるなら栄治郎が白、松治が黒でともに那智の上物、酒なら栄治郎が甘口、松治が辛口でどちらも特級酒のコクと味。」〈こけし手帖・23〉と評したが、この評の松治は昭和15年秋以前の作についてであろう。
〔伝統〕蔵王高湯系三春屋
松治の型は、斎藤源吉、斎藤松助やその弟子たちが作った。
〔参考〕
- 武田利一:名品こけしとその工人・松治のこけし〈こけし手帖・23〉(昭和33年10月)
- こけしの会:連載覚書(九)松治こけし〈木の花・第9号〉(昭和51年5月)