本間留五郎(ほんまとめごろう:1909~1974)
系統:鳴子系
師匠:岡崎斉
弟子:
〔人物〕 明治42年12月9日、山形県西田川郡温海町温海の時計修繕業本間卯太郎、ことの五男(末子)に生まれる。兄が塗師であった関係で、両親より木地挽の修業を勧められ、大正13年4月16歳のとき、鳴子の岡崎斉の弟子となった。鳴子を選んだのは兄が漆塗を学んだ師匠の兄弟子が鳴子に居たためで、その斡旋によるという。
岡崎斉の下では、足踏みロクロで玩具を主に挽いた。昭和2年4月に年期が明けてからは、岡崎斉吉の工場で動力により横木類を主に挽いた。昭和5年7月より一年間入営の後、再び斉吉の工場へ戻り木地挽きを続けたが、昭和12年9月に応召、同年10月に出征して北支各地を転戦した。昭和15年11月岐阜連隊にて召集排除となり帰郷した。この機会に独立する決心をして、温海の実家の物置小屋に足踏みロクロを据えて玩具専門に木地を挽きはじめた。温海で最初のこけしが店頭に並んだのは昭和16年3月下旬からである。戦後も長く木地業に従事したが、昭和49年1月14日に没した。行年66歳。
〔作品〕 岡崎斉吉のもとで作られた昭和初期のこけしに、大沼新兵衛名義のものがある。仙台に他出していた新兵衛の留守宅にこけしの注文が届いたとき、鳴子に残っていた大沼希三(後藤希三)が困って、岡崎斉吉工場で同じ職人をしていた本間留五郎などにこけしの製作を頼んだためらしい。下掲写真のこけしは大沼新兵衛名義で蒐集家の手に渡ったもの、おそらくの本間留五郎の鳴子時代の作であろう。
大沼新兵衛名義の本間留五郎〔31.5cm(昭和11年頃)(鈴木康郎)〕
新兵衛名義には、他にも深沢コレクション中に岡崎工房の作と思われるものがある。本間留五郎の鳴子時代の作品はほとんど確認できないが、そのかなりの部分は大沼新兵衛として蒐集家の手に渡っていたと思われる。
温海へ移り〈鴻・9〉で紹介された昭和16年の作は、下ぶくれの頭に繊細な筆致で御所人形を思わせるような端整な表情を描いた秀作であった。下掲の深沢コレクションの同16年作の完成度から見ても、留五郎は鳴子時代にかなり盛んにこけし製作をしていたと思われる。
〔右より 12.7cm、16.0cm、23.3cm、20.6cm、14.2cm、13.3cm(昭和16年)(日本こけし館) 深沢コレクション
戦後になると木地の形も、描彩も変化して、鳴子の岡崎工房のもつ優雅で情感に富む作風は影をひそめてしまった。
〔右より 15.2cm(昭和16年)、24.5cm、25.1cm(昭和38年頃)、24.0cm(昭和46年)(高井佐寿)〕
〔系統〕 鳴子系岩太郎系列
〔参考〕