村井福太郎(むらいふくたろう:1882~1969)
系統:津軽系
師匠:村井伊太郎
弟子:村井操
〔人物〕 明治15年3月15日、青森県南津軽郡蔵館村の木地業村井伊三郎の二男に生まれる。代々萬太郎を家名とし、祖父の萬太郎(慶応3年没、48歳)の後、父伊三郎も萬太郎を襲名した。村井家は蔵館の古い居木地師の家だといわれている。主に津軽塗の塗下を作っていたようである。伊三郎は津軽公の御前で木地挽きを披露に及んだこともあったという。
明治27年13歳のころから、父伊三郎について木地を学び、主に塗下や雑器(柄杓、蝋燭台、高坏、腰高等)、小物(糸巻き、根付、玩具)などを挽いたという。明治30年16歳のころからこけしも挽いたというが、今残るようなものではなかったという。
明治41年と昭和5年には、鳴子の大沼岩蔵が大鰐に来た。明治41年の滞在は数日で短かかったが、昭和5年の時は1年ほどの滞在で、木地の指導も行った。福太郎も、このとき岩蔵から高度な技術を学んだという。福太郎がよく語っていたのは、茄子の茶入れの製法で、薄くしなる鉋で先端の刃を殺したものを、穴の先端から入れて、底に刃先を押し当ててしならせながら茄子の形に、内側を削っていく製法であった。この技術を使えるものは限られていたようで、福太郎の自慢の一つであった。
昭和の初めころから、大鰐の嶋津彦作の工場で職人をしたが、そこには当時、山谷権三郎、長谷川辰雄、嶋津彦三郎らもいた。
村井福太郎のこけしで残っているのは昭和7年ころの作からである。収集家の勧めで作り始めたものであるが、福太郎自身は描彩を行わないので、すべて他人の絵付けである。
昭和8年から、4男の操が木地の修業を始めた。男子4人の子を得たが、上の三人(久雄、鉄雄、猛雄)が皆夭逝したため操が家業を継いだのである。
福太郎は、戦後も亡くなる年まで木地業を続けた。ただ、晩年に川端にあった自家の作業場が水害で使用不能になったので、嶋津木工所に通ってロクロを借り木地を挽いていた。
性格は温厚で誠実であり、最後まで職人気質を持ち続けた工人であった。
昭和44年4月2日没、行年88歳。
〔作品〕 村井福太郎名義で蒐集界に出た最初のこけしは、昭和7年ころの作。木地は福太郎で、描彩は小山内清晴のもの。小山内清晴はねぶたの絵師で、大鰐駅前で正直屋という食堂を経営していた。下の写真の西田記念館蔵8寸4分、横山五郎旧蔵8寸3分は小山内清晴描彩である。
この他に、小山内描彩の作例は、〈こけし 美と系譜〉91図左端2本、〈こけしの美〉251、〈古作図譜〉323、324、〈こけし鑑賞〉左端などに紹介されている。小山内清晴は昭和10年ころ亡くなったので、小山内描彩の残る作品数は必ずしも多くはない。小山内描彩は、面描硬筆で、描線も細めであり、胴模様は石竹や菊模様が短いタッチで描かれている。
〔25.0cm(昭和7年頃)(横山五郎旧蔵)〕 小山内清晴描彩
小山内清晴没後の福太郎こけしの描彩者は、長谷川辰雄であるといわれている。辰雄の描彩は、小山内に比べて面描太く、柔らかな筆致、胴の花模様も描線は柔軟で伸びやかである。〈こけし 美と系譜〉91図右端3本、〈こけしの美〉250、〈こけし鑑賞〉右2本、〈古作図譜〉325などに作例がある。
また、〈こけし時代・11〉には弘前の木村弦三コレクションの写真が掲載されており、176~179ページに小山内描彩、長谷川描彩の多くの福太郎が掲載されている。
〔25.8cm(昭和10年ころ)(深沢コレクション)〕長谷川辰雄描彩
〔25.8cm(昭和10年頃)(西田記念館)〕 長谷川辰雄描彩
福太郎の4男操は、修業を開始したころからこけしの製作も行い、また描彩も行ったから、福太郎名義のこけしの中には四男操の描いたものが混じっている。昭和14年以降のものは大部分が操描彩と言われている。
下掲の7寸3分は村井福太郎名義で蒐集家の手に渡ったもの、描彩は村井操である。
〔22.1cm(昭和14年4月)(西田記念館)〕 村井操描彩
戦後は、福太郎名義、操名義ともに全て操の描彩である。ただ木地は亡くなる年まで福太郎が挽き続けていたから、福太郎名義の木地は福太郎が挽いたものだったと思われる。
下の6寸2分は、昭和43年の夏に島津木工所で福太郎が木地を挽き、村井の自宅にいた操が描彩したもので最晩年の作である。胴底には「村井福太郎 八十七才」と署名した。
〔18.7cm(昭和43年8月17日)(橋本正明)〕 木地:福太郎 描彩:操
なお、〈こけし手帖・102〉には、村井福太郎の死後、福太郎名義のこけしが津軽方面に出回ったという記事があり、第3者による模作が行われたことがあったかもしれない。
〔系統〕 津軽系大鰐亜系 4男操の没後、後継者はいないが、阿保六知秀、阿保正文が福太郎型(長谷川辰雄描彩のタイプ)を復元している。
〔参考〕