横山政五郎(よこやままさごろう:1894~1967)
系統:肘折系
師匠:佐藤周助
弟子:佐藤菊之助
〔人物〕 明治27年7月11日、山形県最上郡大蔵村肘折の農業横山政治の長男に生まれる。叔父の横山新助は柿崎藤五郎の弟子であった。明治40年14歳で肘折河原湯の近くで木地を挽いていた佐藤周助について技術を習得した。この時の相弟子に相川忠次郎がいる。明治44年年季明け後、約一年御礼奉公をしてその後独立した。約一年木地業に従事したが、その後は本家筋の亀屋旅館を手伝うようになり、木地から離れた。大正3年より大正5年まで兵役に就き、帰郷後約一年ほど木地を挽いたが廃業した。大正12年頃に肘折に横山仁右衛門の工場が出来た際にニ年ほど盆を挽いたが、ほとんどの期間は本業の農業に従事していた。政五郎の家は田を一町四反ほど持っていて、肘折では一番の大農であった。
終戦直後に、長男菊太郎が周助の長男寅之助の弟子となって木地を挽くようになったので、据え付けたロクロで政五郎も多少挽くようになった。冬期の副業などにこけしも挽いていた。
昭和28年に肘折を訪れた加賀山昇次が、政五郎の昭和26年作を村井六助旅館主より手に入れて政五郎の存在を知り、政五郎にこけし製作を強く勧めた。その結果、翌昭和29年8月頃より本格的に作るようになり、同年11月の東京こけし友の会で尺・8寸・5寸の三本組の頒布が行われた。これ以後、政五郎こけしが広く蒐集界に知られるようになった。
昭和39年2月に中風を患い、こけし製作を中止した。昭和42年2月6日心臓麻痺のため急逝、行年74歳。
〔作品〕 〈こけし辞典〉当時は、戦前のこけしは残っていないと思われていた。長男菊太郎が木地を挽くようになって、そのロクロで政五郎が挽き始めたものが現存するものの古いもので、この時期のものとして木原茂蔵、植木昭夫蔵の昭和24年作が知られていたにすぎなかった。戦後間もない時期の政五郎こけしは、酒田の渡辺玩具店が扱ったことがあり、渡辺玩具店から一部篤志家の手に渡っていたらしい。
ところが、及位の佐藤文吉が戦前昭和17年作の政五郎こけし7寸5分を手に入れて、それが昭和53年の神奈川県立博物館で開催された「こけし古名品展」に出品された。
その後もいくつかの戦前作が発見され、政五郎は戦前にも農業の傍ら、特に冬期の農閑期などにこけしの製作を少しづつ続けていたことが分かってきた。
下の写真の6寸は、胴下部のロクロ線が最下端に入れられており、ロクロ線の下に空白がない。これが形態的には古い。昭和10年代後半になるとロクロ線の下の空白が出来るようになる。
下の写真の右端は、佐藤文吉発見の昭和17年作で「こけし古名品展」に出品され〈こけし古作図譜〉に掲載されたもの。左端はほぼ同時期、昭和18年頃の作。
この頃の作は、表情は鋭角というより古雅であり、アルカイックな微笑みの口元が堪らない魅力を感じさせている。
〔右より 23.0cm(昭和17年)(鈴木康郎)、29.5cm(昭和18年頃)(佐藤洋昭)〕
下の写真は、〈こけし辞典〉当時、最も古いと思われていた昭和24年頃の作、戦前作と大きな変化はないが、眼の筆法がやや鋭角になり、緊張感は増している。一方古雅さはやや希薄になってる。
加賀山昇次が入手した昭和26年作は名和好子のコレクションに入り、〈こけし・人・風土〉の口絵に掲載されている。
本格的な、こけし再開は昭和29年以降であったが、昭和30年ころまでは十分戦前の面影を残した作品を作っていた。
戦後の作品の年代変化は、中屋惣舜によって、〈こけし手帖・81〉で詳細に論じられている。
〔系統〕 肘折系周助系列
師匠は佐藤周助であるが、作品で見る限り柿崎藤五郎の影響が感じられる。叔父新助は藤五郎の弟子であり、藤五郎自身も政五郎の木地修業年代には生存していたから、こけしには藤五郎の影響があったとしても不思議ではない。政五郎は運七以上に肘折の古い様式をそのまま継承した工人であったかもしれない。
〔参考〕 こけし千夜一夜 第662夜