佐藤哲郎(さとうてつろう:1932~2022)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤吉弥/佐藤吉之助
弟子:大森久一/緑川正人/阿部好/小川文男/日下秀行/我妻司
〔人物〕 昭和7年1月25日、遠刈田温泉佐藤吉弥、トラヨの次男として生まれる。昭和20年ころよりこけしの描彩は始めたと言うが、正式の木地修業は、昭和22年4月中学校を卒業後新地の叔父佐藤吉之助に就いてからである。当時自宅にはロクロが無かったので、叔父吉之助の工場に通って修業した。師匠は父吉弥と叔父吉之助である。この工場には、このころ萱場稔・黒羽弘・長尾昌義・与名本豊等も弟子として働いていた。
昭和25年には修業を終え、自家にモーターロクロを据え付け営業を開始した、昭和29年亘理出身のせい子と結婚、長男学ほか一女をもうけた。
この時期は新型こけしのみで伝統こけしを作り始めたのは、父である吉弥がこけしの製作を復活した昭和31年頃からである。昭和39年大森久一が、昭和40年には緑川正人が弟子となった。
昭和40年6月の吉弥の死後、昭和42年に自分の家と店を新築した。
昭和50年には長らく廃絶されていた木地玩具「虎」「鶴」の復元を行う(〈木の花・第拾号〉参照)など蒐集家の期待にも応えてくれている。また後進の指導にも熱心で、持続的な伝統の継承にも心を砕いている。上ノ山の阿部好、岩沼の小川文男に木地を教えた。平成23年には宮城県蔵王町の「伝統こけし工人後継者育成事業」で木地を学んだ日下秀行を約一年指導した。
木地の腕は優れており、ロクロで削る鉋屑がどこまでも続いて、時に左手の肩いっぱいまで続いた鉋屑で覆われることもあった。
令和4年2月1日没、行年数え年91歳。
〔作品〕 描彩を始めた最初の2年程は黒目勝ちで新型風の表情だった。昭和30年代は胴の菊模様の葉が細かい物であったが、昭和40年頃良輔・八重子とともに吉弥風の葉に訂正した。なお初期の面相に関しては、姉婿の良輔が吉弥型を描くのに対し、哲郎の作には吉之助の雰囲気が加味されていた。昭和40年代には、吉弥の型を各種研究し、鋭角的な緊張感のある表情を描くようになった。昭和45年〈鴻・8〉に掲載されている吉弥の写真をもとに行った復元は、表情に張りと気品があって評判が高かった。
〔25.5cm、17.5cm(昭和45年2月)(橋本正明)〕 〈鴻・8〉の吉弥型〉
下に掲載した写真は、昭和14年に友晴木地に吉弥が描彩したこけしを哲郎が写した作品。昭和55年に備後屋で開催された「こけし古作と写し展」に出品され、頒布された。戦前の鋭角的な吉弥の筆法を見事に再現していた。
〔31.0cm(昭和55年)(橋本正明)〕 こけしの会「こけし古作と写し展」頒布
〔伝統〕 遠刈田系吉郎平系列