渡辺角治(わたなべかくじ:1877~1922)
系統:土湯系
師匠:渡辺作蔵
弟子:大石与太郎/高橋忠蔵
〔人物〕明治10年4月12日、福島県信夫郡土湯村字上ノ町の渡辺作蔵・クラの二男に生まれる。戸籍表記は渡邊。父作蔵は佐久間弥七の二男で浅之助の弟、渡辺源五郎の孫クラの婿となった。角治の長兄に久吉がおり、久吉は膽澤為次郎について足踏みロクロの技術を学んで山根屋の木地を専ら引き受けていた。少年時代は久吉や弟の房吉と共に下駄作りの手伝いや、原木伐採等に従事、木地挽きは久吉に習ったようである。明治29年妹のフミは佐久間浅之助長男由吉に嫁した。
明治33年10月24歳で飯坂町字湯沢25(鯖潮湯の近く)の豆腐屋中田東太郎の養子となり、同36年郡山市の塩問屋足利屋の娘斎藤キンと結婚、夫婦養子となった。翌年養父母に男子が生まれたため、明治38年2月中村屋旅館主人與右衛門の取りなしで養子縁組を解消、旧姓渡辺に戻って木地業山根屋として分家独立した。中田夫婦は家屋敷を担保にして金を持ち、内緒に干葉に移住、角治は中田の祖母をかかえて働き、大金を出して家を取り戻した。
性剛直苛烈で「土湯の鬼」といわれたほどの快力の持主であった。四斗五升米俵を軽く頭にのせて歩いたり、荒縄を三巻身体に巻きつけぶつんと切ったり、25貫目のタマを掛けた秤棒の先を持ったりした。たいへんな働き者、しまり屋で、二階の床が挽き貯めた木地製品(盆とか玩具類)でさがってしまうほどだった。浅之助、作蔵等の影響でこけしを作るようになったが、顔の描彩はせず、当初は同じ飯坂の八幡屋佐藤栄治方に依頼していたというが、やがて妻キンが温泉宿山形屋の主人などに教わって描彩を始めるようになった。山形屋主人も土湯の出身といわれている。
明治38年膽澤為次郎が来訪し、よく働いて常人の五倍の仕事をしたが、またよく遊びもした。約2ヵ月いて角治と短い口論の末いなくなった。明治38年大石与太郎が弟子入り、明治42年高橋忠蔵が弟子入りしか。明治42年道路ですべって転倒、腰を強く打ったのが原因で骨盤カリエスとなり、療養にっとめた。大正10年兄久吉の二男で当時2歳の喜平を養子としたが、角治は翌大正11年6月28日闘病生活10数年の後に没した。行年46歳。
大正9年動力に替えたときわずかに挽いたが、発病後は自ら足踏みで挽くことは出来なかった。一日数回仕事場に現われ、口頭で指図するだけだった。今日残っている角治・キン名儀の鯖湖こけしの木地は、大石・高橋等弟子たちの挽いたものか、大正9年動力が入った時に一時的に角治が挽いたものといわれる。
角治の死後も、職人の木地にキンが描彩したこけしが角治名義で店頭に並べられており、一時収集家はそれをみな角治の製作と思っていた。
弟子や職人には大石、高橋のほかに高野辰治郎、佐藤敬弥、長沢延太郎、佐藤新一、水戸繁三郎等がいる。
〔作品〕 下掲の久松保夫旧蔵は、大正9年に動力ロクロが導入され、渡邉角治が10余年ぶりに木地を再開した時に挽いたものといわれている。胴裏に三つ縦に並んだロクロの爪跡(俗に三つ爪という)があるのでこの時代の作と判定できる。さすがに角治木地で胴はすらりと細身、横長の頭部と見事なバランスになっている。
〔21.0cm(大正9年)(箕輪新一)〕 久松保夫旧蔵 三つ爪
渡辺角治木地 キン描彩
〔伝統〕土湯系鯖湖亜系
〔参考〕