高橋忠蔵

高橋忠蔵(たかはしちゅうぞう:1893~1981)

系統:土湯系

師匠:渡辺角治/大石与太郎

弟子:高橋忠臣/高橋俊/高橋佳隆/伊賀進/高橋久雄

 

〔人物〕 明治26年4月29日、福島県伊達郡小国村大波の農業高橋武左衛門、トヨの四男に生まれた。明治37年3月下小国小学校高等科一年を終了。18歳まで農業に従事した。
明治43年4月飯坂の渡辺角治の弟子となったが、角治はこのときすでに病身で、木地挽の技術は兄弟子の大石与太郎について修得した。角治は主に口頭による指導であった。
製品は飯坂で店売りをしたほかに、土湯の山根屋に卸し、その他東山温泉や中ノ沢温泉にも出していた。大でこ(8寸)中でこ(5寸)等を盛んに挽き、ロクロ模様をつけ、顔はキンが描いた。この当時はキンは胴模様を描かなかったという。自転車、ふえ付ごま、徳利ごま、ぶらんこ、汽車、だるま、手提籠、からから、小づち、あひる、たぬき、お茶道具等の玩具や盆、糸くり枠等も作った。
大正6年4月満7年の年期があけ、さらに1年礼奉行をした後、大正7年9月福島県相馬郡石神村の兄の家によって佐藤マツと結婚し、翌大正8年9月に原ノ町に移って独立営業した。小高町に卸す織機の木管を作り、鯖湖より顔を描いたでこの頭を仕入、胴をつけて原ノ町の店で売った(大正8年~12年)。大正9年長男茂が誕生、翌10年産後の肥立ちが悪く妻マツが亡くなった。大正11年石神村の伊賀ミンと再婚した。この頃は川俣の羽二重が好景気で、機業用の木管の需要は旺盛だった。原ノ町で自らこけしの描彩まで行う様になったのは、鯖湖から顔を描いた頭が届かなくなった大正12年頃からである。大正14年次男忠臣が生まれた。昭和8年にのちに佳隆の妻となる三女昌子が生まれた。
昭和12年橘文策の来訪があり、〈木形子〉で作者として紹介された。
鯖湖の描彩者がキンであったことが判明した昭和14年頃からは、蒐集家の依頼により、キンのこけしの木地を挽く事があった。昭和14年8月日本橋白木屋で4日間の実演を行なった。昭和21年には柴田佳隆が木地の弟子入りした。昭和23年に三女昌子と佳隆は結婚し、佳隆は養子となって高橋姓となった。
13年間区長を勤め、昭和22年から26年は町会議員、昭和26年~32年は民生委員をつとめた。「出世名鑑」に名を書かれたこともあった。原ノ町の弟子は次男忠臣、高橋俊(兄の子)、伊賀進、高橋久雄、高橋佳隆(娘婿)等があるがいずれも転業した。長男忠臣は昭和25年に26歳で他界した。三女昌子の婿佳隆は、昭和29年京王帝都電鉄に入社し、東京都下に転出した。
長男は早くに没し、妻ミンも昭和35年1月に急逝したので、昭和35年4月東京都日野市百草317に転居して、三女昌子・佳隆の一家と同居した。この家の一隅にロクロを備え、注文に応じこけしを作った。尺以上の大寸物は日野時代のものが多い。昭和37年頃から佳隆も勤務の傍ら、再びこけしを作る様になった。忠蔵はきわめて実直誠実で典型的な職人気質をもち、体の続くかぎり働くほうで、収集家の注文にも気安く応じ、各種の鯖湖型の復元にも素直に応じた。
昭和49年には「八十一翁 忠蔵と第二回こけし三十人展」が東観により開催された。また昭和51年の大阪・忠蔵庵「第一回コケスンボッコ鑑賞展」会誌にはこけし絵とあいさつ文を寄稿した。昭和55年日野市文化事業功労賞を受賞した。
昭和56年3月15日没、行年89歳。

高橋忠蔵 昭和15年

高橋忠蔵 昭和40年 百草園時代

〔作品〕 鯖湖時代の物は確認できない。本人描彩に関するかぎり、原ノ町時代や日野百草時代のものが残っている。〈こけしと作者〉の古型は大正12年ころ製作したものが橘文策訪問まで残っていたもので、古風、大味のとぼけた味の作品であった。この時、橘文策が手に入れた古型は数本あり、下掲写真の橋本、深沢蔵品のほか箕輪新一およびらっこコレクション蔵品(〈こけし古作図譜〉に掲載)中にも残っている。皆一様に、赤が流れて緑がやや残っているので、原ノ町の工房で水あるいは湿気を受けていたのかも知れない。


〔 12.2cm(大正12年頃)(橋本正明)〕


〔 18.5cm(大正12年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

戦前、原ノ町で作ったこけしは、水平に切れ長の細い瞳を描き、古風な表情の佳作であった。


〔右より 18.5cm、31.5cm(昭和15年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

戦後も原ノ町で、地域の要職に就く傍ら、こけしの製作を行った。瞳はやや丸みを帯び、また大きく彎曲して描くようになった。肩もややなで肩になる。


〔右より 19.3cm(昭和30年頃)、30.4cm(昭和33年頃)(橋本正明) 〕 原ノ町時代

昭和35年に原ノ町から東京都下に転居したが、家は京王帝都電鉄の百草園駅から駅前の道を線路に沿って少し戻った道路沿いにあった。都心からもあまり遠くないので、蒐集家もかなり訪れるようになり、そうした蒐集家の要請で鯖湖古作の型も作るようになった。下掲の右端くびれ型は〈こけしの美〉単色版の名和好子蔵品を写したものである。


〔右より 18.6cm、18.4cm(昭和39年)、15.2cm、15.4cm(昭和40年)(橋本正明)〕

下掲の5本のうち中央の尺2本、および5寸は鯖湖の渡辺キンの描法、また左端の尺は忠蔵自身の戦前作を復元したものであろう。蒐集家の注文に応じて気軽に作品を作ったが、気持ちの良い出来のものが多く、これらを〈こけし辞典〉で鹿間時夫は「楽しんで工夫している」と評した。


〔右より 25.2cm、30.0cm、29.5cm、15.6cm 鯖湖型三種、30.5cm(昭和41年)(橋本正明)〕

この時期に名古屋こけし会から定期的に頒布品の注文があり、各種の用材を用いた特注のこけしも製作している。作品は晩年にいたるまでほとんど衰えなかった。


〔右より 15.7cm、18.5cm、23.6cm、18.8cm(昭和41年)(橋本正明)〕


〔右より 18.5cm(昭和45年)、24.7cm(昭和46年)、24.5cm、23.3cm(昭和47年)(橋本正明)〕 

〔伝統〕 土湯系鯖湖亜系

〔参考〕

なお、高橋忠蔵に対しては西田峯吉による詳細な聞書きがあり、〈こけし・木地師の周辺双書・第一集、第二集「鯖湖と高橋忠蔵」 昭和38年、昭和40年〉や〈こけし手帖・83〉にまとめられている。また未来社の雑誌〈未来〉昭和47年9月号では、編集者松本昌次が西田聞書きを元に更に編集を加えて「この人に聞く・3 木地業60年 高橋忠蔵」をまとめている。また〈東観 八十一翁 忠蔵と第二回こけし三十人展〉会誌にも西田峯吉のまとまった記述がある。忠蔵の生涯とその性格は典型的、理想的な木地屋の姿を具現したものとして、当時の蒐集界からは敬意を持って受け止められた。

忠蔵の聞書きを掲載した文献

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