渡辺キン(わたなべきん:1881~1941)
系統:土湯系
師匠:渡辺角治
弟子:渡辺喜平
〔人物〕 明治14年10月10日、福島県安積郡郡山町大町一七の塩問屋 足利屋 斎藤定吉・しんの長女に生まる。
温泉旅館中村屋の主人阿部與右衛門の取り持ちで、明治36年7月7日飯坂町字湯沢 鯖湖湯近くの中田角治と結婚した。夫角治は土湯の木地師渡邉作蔵の二男で明治33年に飯坂の豆腐店中田屋の中田東太郎の養子となった。 中田東太郎には実子がなかったため角治を養子に迎えたが、遅くなって実子が誕生したので、明治38年2月に角治との養子縁組を解消することになった。角治は旧姓の渡辺(戸籍表記は渡邉)に戻ったが、養子縁組解消後も、角治夫婦は中田屋の一角の木地作業場で仕事を続けた。
キンは商売熱心であり、行儀作法に厳しかったという。夫角治は大変働き者だったが、明治42年に道路で滑って腰を強打したのが原因となって骨盤カリエスにかかり、以後は大正9年に動力を入れるまでは殆どロクロには上がらなかった。大正10年12月夫婦の間に子がなかったので、角治の兄久吉の四男喜平を養子とした。角治が亡くなる前の年である。
鯖湖のこけしは、角治が描けなかったため、当初は飯坂八幡の佐藤某に依頼していたが、描き賃を支払うのは不利なため、キンに描かせることにしたらしい。
角治木地にキンが面描して売り出したのは結婚間もないころとされ、描彩は面描のうまかった飯坂湯野の山形屋旅館主人(土湯出身)に習ったという。この人は明治10年代土湯で旅館を営んでいたが、明治23年の大洪水で被災し その後に飯坂町湯野に移った。
清水晴風の〈うなゐの友・6編〉(大正2年6月刊)に鯖湖こけしが紹介されているが、頭の比較的小さな山根屋風のこけしである。この図版の解説を見ると、この地ではこけしを「木人形」と呼んでいたようである。
〈うなゐの友・6編〉(大正2年6月刊) 飯坂製こけし這子 左が鯖湖 右は佐藤栄治
アヤメ模様は大正末より描くようになったという。高橋忠蔵はキンを姉さんと呼び、描彩を姉さんより習ったと話していた。キンは強い近視だったので、筆をとるとき、極端に目に近づけて描いた。そのためか面描は向かって右の目が尻上がりになる傾向がある。喜平の言によれば、目の線のはね方にやかましく、また極めて速筆であったという。角治の大量生産ムードに適応し速く仕上げるため身につけた描法であったらしい。昭和16年12月5日午後6時没、胃癌であった。行年61歳。
角治が描彩をしなかったこと、木地も明治41年以降は殆ど挽かなかったことは、西田峯吉が角治の弟子大石与太郎を訪ねて聞書を取ったことで判明した。それまでは角治が亡くなる前の鯖湖のこけしは木地・描彩ともに角治の作と誤解されていた。その報告がもたらされた時の蒐集界の衝撃を〈こけし・4〉(昭和14年11月)で松下正影が紹介している。
〔作品〕 角治が結婚前にこけしの描彩を頼んでいた飯坂八幡の佐藤某は、佐藤栄治のことかもしれないが、確証はない。
その後、鯖湖で作られたこけしの描彩者は概ねキンであるが、その木地を挽いた工人が誰であるか、またその年代を特定するのは非常に難しい。
角治やその弟子達はもっぱら精力的に木地を挽いていて、挽きためた木地が二階に積まれていたため天井がたわむほどであったといわれている。
キンは、土産物の需要にあわせて、その挽きためた木地を取り出しては描彩を行っていたらしい。角治の弟子達には、大石与太郎(明治38年弟子入り)、高橋忠蔵(明治43年弟子入り)の他、佐藤敬弥、水戸繁三郎、長沢延太郎、曳地三郎などがいた。また大正中期には、鎌先の木地講習会で佐藤勘内に手ほどきを受けた高野辰治郎が来て職人として働いた。こうした職人や弟子達も一様にこけしの木地も挽いていたであろう。
下掲写真はロクロ模様の鯖湖こけしであるが、後年のロクロ模様と違って、赤の帯の上下に細い赤線が入る。これは〈うなゐの友・6編〉の図版のもの同じ形式であって、おそらく、木地を挽き、轆轤模様を入れた工人は、〈うなゐの友・6編〉のものを作った工人と同じではないかと思われる。
弟子の高橋忠蔵は、原の町で独立当初、鯖湖より面描をすませたこけしの頭を大量に仕入れ、胴をつけて売っていたという。大正8年から12年くらいの時期だという。
下の写真は、石井眞之助が原の町の高橋忠蔵より入手したもの。「忠蔵が原の町で開業するとき見本に鯖湖からもってきたものだ」と石井眞之助は語っていた。作業場に転がっていたらしい。見本に持ってきたものであれば、大正7年以前、もし鯖湖より取り寄せたキン描彩の頭部に胴をつけたものであれば大正8年頃の作であろう。胴下はまだ切り離されていない。橘文策も同様のものを手に入れている(⇒ 木人子閑話(3))。
〔11.5cm (こけし部分)、12.6cm(切り残しの台を含む)(大正7年ころ)(橋本正明)〕
下掲の3本は天江富弥コレクション、左の2本は〈こけし這子の話〉図版6に収載。左端は弥治郎風の木地にあやめを散らした胴模様で珍しい。〈図説『こけし這子』の世界〉解説によると、このこけしの木地は弥治郎から来た職人高野辰治郎が挽いたものという。
〔右より 30.6cm、23.0cm、32.4cm(大正中期)(高橋五郎)〕 天江コレクション
鯖湖の工房には、挽きためた木地が山のようにあり、二階の作業場に積まれていたため、天井が下がるくらいだったという。その木地にキンが適時描彩していたらしい。客がこけしを求めると、頭と胴とを取り出して適当に組み合わせて客に渡すような事もあったらしい。下掲の加藤コレクションの作は、頭は大正初期、胴は大正9年頃に作られたもののようである。時代の違うものを組み合わせて売ったのだろう。
〔 20.0cm(大正時代)(調布市郷土博物館)〕 加藤文成コレクション
〔 32.0cm(大正期)(ひやね)〕 名和好子旧蔵 〈こけしの美〉単色版掲載
下掲の久松保夫旧蔵は、大正9年に動力ロクロが導入され、渡邉角治が10余年ぶりに木地を再開した時に挽いたもの。胴裏に三つ縦に並んだロクロの爪跡(俗に三つ爪という)があるのでこの時代の作と判定できる。さすがに角治木地で胴はすらりと細身、横長の頭部と見事なバランスになっている。
〔21.0cm(大正9年)(箕輪新一)〕 久松保夫旧蔵 三つ爪
渡辺角治木地 キン描彩
下掲2本は西田峯吉コレクション、右は大正末期でまだ角治生前のころの作と思われる。ただし木地が角治のものか、弟子・職人のものか不明である。
左は昭和13年に西田峯吉が鯖湖のキンの店から手に入れたものという。〈こけし手帖・36〉で西田峯吉はこれを喜平木地としているが、こけしを見る限り面描もしっかりしていて、木地の形態も喜平のような重さが感じられないので、かなり以前に作られた古作を西田峯吉がキンから手に入れたのではないかと思われる。一応昭和初期作としておく。
〔右より18.7cm(大正末期)、19.1cm(昭和初期)(西田記念館)〕 西田コレクション 〈こけし手帖・36〉掲載
昭和13年、西田峯吉は高橋忠蔵からの聞書きで、いわゆる角治のこけしの描彩者がキンであったことを知る。また翌14年奥羽本線峠駅近くにいた大石与太郎を訪ねて同様の聞書きを得たので、昭和14年秋に高橋忠蔵木地を鯖湖に持参してキンに描彩を頼んだ。
下掲はそのころの高橋忠蔵木地、キン描彩のこけしである。
また、福島は飯坂から近かったので福島の佐久間由吉に木地を頼んで、キンに描彩を依頼する蒐集家もあった。
〔 24.8cm(昭和16年頃)(西田記念館)〕 佐久間由吉木地 西田コレクション
渡辺キンの描彩したこけしの木地は角治のものから、弟子のものまで多様であり、その形態によって緊張感の高い気格のあるこけしと見えたり、ややだらしのない崩れた面描と映ったりする。「角治生前の作は全て木地・描彩ともに角治の手になった」と信じていた鑑賞者は、それを非常に高く評価する一方で、角治没後のものを鯖湖の名を貶める作と評したりしたが、そのいずれもがキンの描彩であった。木地の形態と描彩の適合によって、こけしの印象は大きく変わる。
大正9年に角治が動力で挽いた所謂三つ爪の木地に、キンの描いた鯖湖こけしは、艶やかな表情に気品も漂い、細身の胴と大振りの頭のバランスの妙、全体にアクセントが付いた流れるような筆致で、一つの頂点となる作である。鹿間時夫は、このこけしを「小股の切れ上がった粋筋の女性の艶麗さと気格を感じさせるこけし」と評した。
土湯本地からは離れたが、飯坂湯元の鯖湖湯に近く、濃密な庶民文化を背景に完成したこけしだったのだろう。
〔系統〕 土湯系鯖湖亜系
鯖湖の型は、養子渡辺喜平ー渡辺義徳、渡辺幸典ー渡辺聡、稲毛豊、渡辺忠蔵、陳野原和紀などが継承した。
〔参考〕