新山久治郎

新山久治郎(にいやまきゅうじろう:1862~1935)

系統:弥治郎系

師匠:新山久蔵

弟子:新山久治/新山福太郎

文久2年3月23日、刈田郡八宮村弥治郎の新山久蔵、志うの長男に生まれた。母志うは蔵本の小室巳之助二女。新山家は代々木地師で、新山家に残されていた享保16年(1731)の山之合判に記載されている休右衛門、あるいは久右衛門を代々名乗っていたようであり、久治郎の家の家督には、その名前には久の字が付く場合が多かった。また久治郎も村の人たちからは久右衛門という家名でよばれていたともいう。
新山本家には氏子狩りで授かった綸旨も伝えられていた。

新山本家に伝わっていたとする氏子狩りで授かった綸旨

久治郎には先妻きくのに一女があったが離別したので、その後に柴田郡大谷村菅野万治郎三女さとを後妻とした。長男久治以下久之助、勇、福太郎、左内、定雄、吉雄はさとの子供である。久之助、勇は幼くしてなくなった。
さとはこけしの描彩も良くしたという。
久治郎は父久蔵より二人挽きを学び、佐藤栄治から一人挽きの指導を受けた。
性質は一徹で、よく父久蔵とロ諭し、女房と子供たちをつれて小屋に移り、10数年間そこで生活したという。父の死後、久蔵のためにこけしの位牌を作ったことが知られている〈蔵王東のきぼこ〉。下掲写真右の位牌は、初孫センが亡くなったとき久蔵が作ったもので センの顔を描き、胴裏には「新山久蔵孫明治十七年久十一月六日二歳ニテ死ス新山セン女ノ霊神」と書かれている。また左の久治郎が久蔵のために作った位牌には「明治三十六年十月三日故新山久蔵行年七十三歳」と書かれている。

 
こけしの位牌 右:久蔵作(明治17年) 左:久治郎作(明治36年)

長男新山久治、四男福太郎に木地の技術を伝えたが、五男左内以降は主に兄の久治や福太郎が技術を指導した。
大正年間に入ると木地業を息子たちにまかせて隠退し、百姓仕事のかたわら、山から取ってきたツツジを盆栽に仕立てて、鎌先や白石、福島方面へ売っていたという。
昭和10年2月2日没、行年74歳。作品は久蔵の位牌を除いて確認されていない。妻女さとのこけしは一本確認されたものがある。おそらく久治郎のこけしも同じような作であったと思われる。

〔参考〕

  • 菅野新一:きぼこの位牌と新山さとのきぼこ〈蔵王東のきぼこ〉(昭和17年8月)
  • 後藤昭信:弥治郎部落の新山本家(一)〈こけし手帖・262〉(昭和58年1月)
  • 後藤昭信:弥治郎部落の新山本家(二)〈こけし手帖・263〉(昭和58年2月)
  • 後藤昭信:弥治郎部落の新山本家(三)〈こけし手帖・264〉(昭和58年3月)
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