弥治郎

弥治郎の村落 昭和40年

こけし産地の地名。宮城県 白石市福岡八宮字弥治郎。東北本線白石、東北新幹線白石蔵王の北西、蔵王連峰不忘山麓にある村落。弥治郎系こけしの発祥地。弥治郎こけし村という施設があり、こけし製作の実演や、作品の展示、歴史資料などを見ることが出来る。

〔歴史〕 弥治郎に関わる地名は、藩政時代明暦2年(1656)の〈刈田郡平村八宮村新田検地帳〉に「やちろう」あるいは「やち路う」という地名の記載があり、これが最初と思われる。おそらくこの村落は明暦年間に行われた新田開発によって形成されたものであろう。この地名は谷地路あるいは谷地領で、湿地あるいは泥炭地を意味する谷地に由来したと考えられている。この検地帳に記載された人名は、甚右衛門、久左衛門、茂右衛門、彦十郎、藤八、清右衛門、清次郎、金蔵、与左衛門、掃部、五右衛門、正三郎、孫七郎の13名である。
明暦年間に成立したことを支持するもう一つの資料は白石市福岡八宮にある臨済宗瑞祥寺の過去帳で、弥治郎に関する記載は寛文12年(1672)の次右門妻から始まっており、村落の形成は17世紀後半であったと思われる。当初は開拓や農耕に従事していたようで、弥治郎で木地が挽かれるようになったのは村落形成からしばらくたった18世紀以降であろう。享保12年(1727)の肝入文書には「刈田郡八宮村御百姓木地挽」として仁右衛門、半四郎、市右衛門、久助の4名の記載があり、この頃には既に木地挽きは始まっていた。木地技術の伝承は従来は横川からといわれていたが後藤昭信はこれを否定し、稲子あたりから直接に弥治郎に伝わったと考えている〈こけし手帖・263〉。横川の木地業成立が元文年間(1730年代後半)であるから弥治郎の木地挽記載の方が古いことを根拠とする。
木地業のためには山に入って用材を得る必要があるが、入山許可の鑑札である〈山之合判〉を休右衛門、二右衛門、加右衛門が享保16年(1731)に受領している。


新山家に残されていた山之合判 屋じろ(弥治郎)として三人の名がある

また延享3年(1746)の蛭谷氏子駈帳には奥州仙台刈田郡八宮村之内弥次郎木地屋として仁右衛門の名が記載されている。
享和以降の弥治郎各家の推移については後藤昭信により下図のように整理されている。

弥治郎各家の年代推移表 後藤昭信作成〈こけし手帖・264〉
但し〈山村に生きる人々〉によると享和3年にはもう一人吉良治が入って12軒、それと片倉家から使わされた不断組足軽佐藤市之丞邦方を含めの講中13人となっている。

弥治郎では家名は代々家督が継承したようで、例えば上表文化14年の佐藤春治は天保8年8月に没しているので、嘉永元年の春治はその相続者と言う具合になる。先代の春治は天保の飢饉で亡くなったが、子供、孫も飢饉で多くなくなり、嘉永の春治一家はその後米沢に移って行った。春治の空き家は佐藤東吉が管理し、最終的には佐藤太蔵とその養子に入った佐藤幸太が住むことになった。幸太五男の春二は三月二日生まれでその漢字を組み合わせて春二と命名したといわれているが、家名の春治に因んでもいるのだろう。
上表嘉永元年の毛利大助は丈助だと思われる。この丈助は、弘化元年になくなった先代毛利丈助を継承して家業を継ぎ明治3年になくなっている。この丈助の四男が毛利栄治で後の飯坂の佐藤栄治である。この毛利栄治は上表文久2年の佐藤常治に木地を習った。この嘉永元年の毛利丈助は先代丈助の長女に婿として入ったが、名は丈助を継承している。このように弥治郎の場合は家名が正式名となるようで、過去帳には同じ名が繰り返される場合が多い。新山久治郎は戸籍法が整った以後の人なので戸籍には久治郎と書かれているが、弥治郎では家名の久右衛門で呼ばれていたと蔦作蔵は語っていた。
また飢饉等で離散する家があった場合は、家ごとに持っていた権利を維持継承するため他家からその家に入りその家名を継承することもあったようである。

弥治郎山神社の寄進額

上掲の山神社の寄進額には右から佐藤栄治、小倉嘉吉、新山栄五郎、新山久治郎、毛利三治郎、佐藤幸太、佐藤勘内、毛利里治、新山友蔵、佐藤栄作、新山圓治、武田幸吉、佐藤久三郎等の名が見える。大正中期の弥治郎の主な家であろう。

〔こけしの発生〕 弥治郎のこけしの発生に関しては、佐藤東吉(東蔵の長男)と佐藤常治が三住の木地師佐藤與四郎のこけしを見てはじめたという聞き書を菅野新一は遠刈田の佐藤茂吉から得ている〈山村に生きる人々〉。佐藤與四郎は遠刈田の佐藤吉松の孫、佐藤茂吉の父友吉の従兄弟にあたる。與四郎の父音治の代に遠刈田から三住に移った。東吉は與四郎の働きぶりにほれ込んで妹つめを與四郎の妻に与えたという。また慶応年間に東吉の仲介で與四郎は弥治郎に赴き、こけしや玩具製作の指導もしたという。この聞き書きは遠刈田側(茂吉および與四郎の孫達)からのものであり正確かどうかわからないが、弥治郎でも東吉、常治の頃(弘化、嘉永の頃)にはこけしを作り始めていたであろう。
弥治郎では、当初は佐藤東吉や佐藤常治の作るこけしを見ながら思い思いに作り始めたので、おそらくどの家のこけしも似たようなものであったと思われる。明治18年以降に佐藤幸太や佐藤栄治が、青根や遠刈田で足踏みの一人挽きを学んで帰り、その技術を弥治郎に伝えたが、一人挽きになると個々の工人の独創を加えた形態の変化も生じ、また描彩にも各家ごとの工夫が加わった。女房達の鎌先商いは、売れるこけしへの追求を加速し、各家ごとの工夫により様式の差異は大きくなった。
その結果、弥治郎系のこけしは各家の特徴によって大きく次の4系列に分類されるようになった。それぞれの系列は上掲寄進額に記載されている下記4名から派生した工人達である。

  • 栄治系列 佐藤栄治(佐藤伝内、勘内およびその後継者)
  • 幸太系列 佐藤幸太(今三郎、慶治、味蔵、春二およびその後継者)
  • 嘉吉系列 小倉嘉吉(嘉三郎およびその後継者)
  • 新山系列 新山久治郎(久治、福太郎、左内、栄五郎およびその後継者)

なお、飯坂の佐藤栄治(毛利栄治)は弥治郎の佐藤常治について二人挽きロクロの技術を習い、遠刈田でさらに佐藤寅治について一人挽きを習った。そのこけしは弥治郎系であるが上記4系列には含めず、外弥治郎として独立のグループ(亜系)として扱われる。

〔参考〕

  • 菅野新一:「三住の木地屋」〈山村に生きる人々〉(昭和36年4月)(〈こけし手帖・36〉に再掲)
  • 橋本正明:佐藤マケの再編成を中心とした「佐藤東吉の木地政策」〈木でこ・66〉
  • 後藤昭信:藩政時代弥治郎の木地挽き(一)〈こけし手帖・221〉(昭和54年8月)
  • 後藤昭信:藩政時代弥治郎の木地挽き(二)〈こけし手帖・222〉(昭和54年9月)
  • 後藤昭信:藩政時代弥治郎の木地挽き(三)〈こけし手帖・223〉(昭和54年10月)
  • 高橋五郎:佐藤与四郎と弥治郎の木地屋たち〈こけし手帖・239〉(昭和56年2月)
  • 後藤昭信:弥治郎部落の新山本家(一)〈こけし手帖・262〉(昭和58年1月)
  • 後藤昭信:弥治郎部落の新山本家(二)〈こけし手帖・263〉(昭和58年2月)
  • 後藤昭信:弥治郎部落の新山本家(三)〈こけし手帖・264〉(昭和58年3月)
弥治郎こけし集落
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