佐藤文六(秋保)(さとうぶんろく(あきう):1899~)
系統:遠刈田系
師匠:遊佐幸太郎/佐藤治平
弟子:
〔人物〕明治32年7月26日、宮城県名取郡秋保村行沢湯元(長袋)で生まる。小学校卒業後秋保村立職工学校に入学し、講師の遊佐幸太郎、佐藤治平について木地挽きの技術を習得した。3年間で卒業後、福島県の柳津へ行き日光木地師赤ンベの長さんのもとで2、3年働き、大正11年ころ中ノ沢の海谷七三郎の工場へ移った。さらに同地の笹川菊之助工場でも働いたが、このとき遠刈田の佐藤豊治がきて笹川工場で講習会を開いた。その後塗師の丹野久左衛門と共に山形県金山の小野寺安之助のもとへ行って働いた後、郷里長袋へ帰った。
詳しい経歴を示した文献としては小野洸による報告〈こけし手帖・28〉が最初である。小野洸は昭和35年5月に菅原庄七の案内で文六を訪ねて聞書きを取った。このとき轆轤と挽きかけの木地があることを確認しているので戦後も木地を続けていたと思われる。ただこの時すでに血圧が高くて体調は優れず、右目はソコヒのため真っ白となって視力は失なわれていた。小野洸は一応こけし製作を依頼し、文六は承知したらしいがついにこけしは送られてこなかったという。もうこけしの作れる状態ではなかったようである。
その後の消息は不詳である。没年も不明。
及位の佐藤文六とは別人である。
〔作品〕戦前東京こけし会の天江富弥が頒布したことがある。一重瞼に大きな眼点を入れたこけしで、上下を紫ロクロでしめた胴には重菊らしい模様が描かれている。作品数は少なく、本格的にこけし制作に取り組んだ期間は長くはなかったと思われる。
鑑賞価値よりは資料価値で評価されるべき作品かもしれない。
下掲は戦前の東京こけし会で頒布されたもの。
〔右より 20.3cm(昭和10年頃)(小野洸旧蔵)、9.7cm(昭和10年頃)(西田記念館)西田峯吉旧蔵〕
〔伝統〕遠刈田系
〔参考〕
- 小野洸:もうひとりの文六〈こけし手帖・28〉〔昭和36年10月)