高梨栄五郎

高梨栄五郎(たかなしえいごろう:1873~1916)

系統:弥治郎系

師匠:高梨栄三郎/佐藤栄治(弥治郎)

弟子:本田鶴松

〔人物〕明治6年6月9日、宮城県刈田郡八宮弥治郎の木地師高梨栄三郎(戸籍表記 榮三郎)、やのの長男に生まる。父高梨栄三郎(嘉永3年11月5日生)は新山栄吉二男、母やの(安政2年5月28日生)は新山久蔵長女、夫婦で高梨由松の養子となった。高梨家、新山家は代々木地業を営んだ旧家で、両家ともに文化14年の古文書弥治郎屋敷木地挽十二軒に記載された家であった。栄五郎も父栄三郎について二人挽きを習得、明治21年には遠刈田から帰った佐藤栄治について一人挽きの手直しを受けた。
母やのは面描の名人で、栄五郎は母ゆずりのこけしを多く作ったという。
本田鶴松は新山久治郎方で子守りをしたが、明治25年頃に高梨栄五郎にひき取られ、仕事を覚える年齢になると木地の手ほどきを受けるようになった。鶴松が後年作り始めた支那服に似せた胴模様のこけしはやのの示唆によるものという。
明治28年4月1日から7月31日まで平安遷都千百年紀念祭とあわせて京都山崎で開催された第四回内国勧業博覧会には、高梨栄五郎が「鳴独楽」を出品した記録がある。

第四回内国勧業博覧会出品目録(明治28年)
鳴独楽を出品 刈田郡福岡村 高梨栄五郎

明治30年ころ、家族で小原へ移住、社屋の一隅を借り、妻とりに綱を取らせ二人挽きで営業したが、売行き思わしくなく2年ほどで弥治郎へ戻った。
家は貧しかったが人情家で、酒を好み、明るい性格であった。
大正5年秋、高梨一家は赤痢に罹患し、弟の寅五郎(栄十郎)は8月28日に、栄五郎は9月1日に、母のやのは9月14日に次々に亡くなった。栄五郎はこの時、44歳であった。
このため父栄三郎は弥治郎を離れて北海道釧路に渡ったが大正7年3月3日に亡くなった。(一説には栄三郎は手に火傷をおって木地を挽けなくなり、酒に明け暮れるようになり、財産を使い果たして弥治郎にはいられなくなったので、赤痢がはやる前に三男常三郎のいる北海道に移ったともいう。)
高梨栄五郎には先妻とりとの間に長男永、後妻かめとの間に小藤治(文献には寿治として紹介されたこともあったが小藤治が正しい)等がいた。小藤治は後に鎌先の木地講習会で佐藤勘内について木地を学んだが、間もなく大網に移り木地業は長くは続かなかった。
高梨栄五郎、寅五郎が長寿であれば、高梨一家は弥治郎系の重要工人の家として注目を集めたと思われる。
栄五郎の長男永は祭文語りに憧れて家を離れ、大和一声という浪曲師になったので、現在の弥治郎ではこけし作者としての高梨の系譜は廃絶している。
 
〔作品〕確実に高梨栄五郎作とされるものは確認されていない。しかし、高橋五郎コレクション中の黒こけし一本(下掲写真)は高梨栄五郎の可能性があり、高橋五郎もその可能性について言及している〈佐藤治平と新地の木地屋たち〉。
この黒こけしは当初は本田鶴松の弥治郎時代の作かと考えられていたが、赤外線撮影等の精査の結果、鶴松の描法と異なる要素(前髪とその両脇の大きな鬢飾りという複雑な構成、四弁の花模様等)が確認された。高梨栄五郎木地に栄五郎あるいはやのの描彩したものである可能性がかなり高い。


〔16.4cm(明末正初)(高橋五郎)〕 

〔伝統〕弥治郎系

本田鶴松は高梨栄五郎についた後、佐藤勘内の職人をしたので、鶴松のこけしは勘内の影響を受けているとして弥治郎系栄治系列に分類されている。しかし、もし上掲写真のこけしが高梨栄五郎であるなら、鶴松のこけしは栄五郎・やののこけしが基調となっており高梨の系列を新たに想定すべきかもしれない。

〔参考〕

  • 高橋五郎:高梨栄五郎のこけしか?〈佐藤治平と新地の木地屋たち〉(白石こけし会)(昭和54年10月)
  • 高橋五郎:弥治郎の高梨家ー高梨小藤治から聞いた話ー〈こけし手帖・243〉(昭和56年6月)
  • 山本陽子:内国勧業博覧会とこけし産地の木地業〈きくわらべ・4〉(令和2年10月)
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