明治17年4月17日生まれの日本画家、黄平と号した。
秋田県出身で放浪の画家といわれた寺崎広業(慶応2年2月25日―大正8年2月21日)に師事、寺崎は明治31年に東京美術学校助教授、明治34年に教授、日本画主任になり、野田九浦、正宗得三郎、中村岳陵なども寺崎の指導を受けた。
作二郎は郷土玩具のうち主に絵馬と達磨に興味を持ち、そのきっかけは、伊勢古市の玩具店で古い達磨を買ったことにより、幼児の追憶を呼び起こされたと語っている。また郷土玩具について無邪気なユーモア、率直さ、単純化された表現が神経衰弱の良薬という。昭和10年代は、東京世田谷区池尻155に住み、内務省造神宮使庁に勤めていた。
こけし専門の蒐集家ではないが、求めに応じてこけし名品の絵を描き、その流麗な色彩筆致に多くの要望があったようだ。特に後に述べる「献上こけし」を制作してから作二郎のこけし絵は神格化され、依頼が殺到したようだ。確かに独特の魅力があり霊的な雰囲気を感じた趣味家がいたようである。石井眞之助は、藤原酉蔵の掛け軸を飾っていたし、久松保夫の床の間には、何時も作二郎が描いた小椋久四郎の掛け軸があり、家族全員がこの絵を好んでいた。
なお献上こけしは、東京渋谷区桜丘町81番地にあった『うなゐ荘』の遠藤兵吉、武親子が、昭和12年、当時の皇太子殿下に献上したこけしである。遠藤兵吉は建築会社間組の相談役、遠藤武は同社幹部で、東宮仮御所の造営を担っていた。昭和11年冬に竣工し、その余材である榧、檜の残材でこけしを作ることを思い付いた。当時三五屋を経営していた、松下正影(木景)がなかを取り持ち、飯坂の佐藤喜一に胸部から裾に流麗な曲線を引く太子型を依頼した。また描彩揮毫者については、技術が秀で、玩具に知識理解のあるうえに、奉献の手続き上、人格閲歴申し分ない人等の条件から、下村作二郎に白羽の矢が立ったようだ。
作二郎は藤原時代の有職模様を取り入れ、高貴御服飾の図案で、金泥盛り上げ極彩色とし、顔は古代ほうこのかんばせ(繊細な引目)によって作り上げた。制作時は斎戒沐浴後、伊勢神社遷宮の際下賜された衣冠でこれに当たりその際の写真が残されている。
なお献上こけしの完成、献上が終わった祝宴が昭和12年6月25日に日比谷松本楼で行われた。その際の事を「影絵」4号で、松下正影が述べている。
その後、献上こけし製作が機縁となって作二郎自身によるこけし製作も求められたようで、戦前の蒐集家蔵品中には作二郎作とされる新趣向のこけしが存在する。
〔参考〕
- 献上こけし製作の為の作二郎の試作品(箕輪新一蔵)
- 作二郎より石井眞之助宛ての書状
- 下村作二郎の漫画絵 〈郷土秘玩 1巻4号〉(昭和7年7月発行)より
文中の「韻松亭」は、この頃横山大観が、経営していた料亭。
戦前の東京こけし会なども使っていたようで、作二郎等もその縁で出入りしていたらしい。
集古会も明治29年1月の上野「韻松亭」の集まりからスタートしている。
現在も上野公園の中で、営業している。操業140年という。