童画家。昭和初期の郷土玩具の蒐集家で、体系的なこけしのコレクターでもあった。
明治27年6月25日、武井慶一郎、さちの長男として長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)の裕福な地主の家に生まれる。武井家は代々諏訪藩の御用を努め、私塾(無事庵)を開き、父慶一郎は平野村の村長を務める等、地域に貢献した人物であった。
幼い頃から童話の世界に遊び、この経験が童画を描く原点になったのではないかといわれる。大正2年、長野県立諏訪中学校卒業後、上京して本郷洋画研究所で絵画の勉強を行った。大正8年東京美術学校(現東京芸術大学)和田英作教授等のもと西洋画科を卒業した。河目悌二、初山茂、岡本帰一、川上四郎等と共に「童画の第一世代」のひとりでもあった。
大正10年に中村梅と結婚、郷土玩具などへの関心がつよくなり、妻女梅と共に本郷通りのフヂヤ郷土玩具店を訪れて、こけしの購入を行うようになった。また熱の入っていた時期には、東北の地図をたよりに東北の温泉所在地の役場に手紙を次々送って未発見の工人を探したという〈父の絵具箱(武井三春著)〉。
大正11年、東京社が創刊した絵雑誌〈コドモノクニ〉創刊号のタイトル文字、及び表紙絵を担当、その後絵画部門の責任者(絵画主任)となった。以降「子どもの心にふれる絵」の創造を目指して、自ら「童画」という言葉を生み出し、さらに昭和2年日本童画家協会を初山滋、川上四郎、岡本帰一、深沢省三、村山知義、清水良雄らと創立した。大正から昭和にかけて童画、版画、童話作家、造本作家、玩具やトランプなどのデザインを行い、独特な芸術分野で活躍した。
特に昭和10年から製作を始めた139点の「刊本」作品は、本の宝石とも呼ばれ、ライプチヒの国際展示会で最も美しい本に選ばれた。一回ごとに寄木細工、ゴブラン織り、パピルスなど異なる技法と素材を用い、絵も文もすべて武井のオリジナルで、アーティストとアルティザンをかけ合わせたマルチなデザイナーであった。基本的に300部限定、記番署名入りで、会員は刊本親類などと呼ばれた。約半世紀にわたる武井のライフワークであった。
児童文化への貢献に対し、昭和34年に紫綬褒章、昭和42年には勲四等旭日小受章が授与された。
昭和58年2月7日午前2時15分、常盤台の自宅で心筋梗塞により逝去、89歳。同日お通夜、翌8日に多数の参列者に見送られて葬儀が行われた。同3月27日、郷里の岡谷で四十九日忌法要が行われ、全国の親類(刊本会員)が参列、5月26日、また百ヶ日に当たり刊本139号〈天竺の鳥〉が最後の貴重な1冊として頒布された。
日本童画家協会の創設メンバー
左上から武井武雄、川上四郎、岡本帰一、下段左から深沢省三、村山知義 、清水良雄
上掲写真は、日本童画家協会の創設メンバー。机上に久四郎のこけしと、エジコがある、背面にこけし群像が見える、また深沢省三は古くからのこけし蒐集家の一人である。
武井武雄は、郷土玩具や初期のこけし蒐集家としても名高く、東京池袋の自家を「蛍の塔」と命名し、昭和5年1月、3月に名著〈日本郷土玩具東の部、西の部〉の2冊を上梓、後に昭和9年4月に東西増補合冊が金星社から再版された。これは天江富弥の〈こけし這子の話〉(昭和3年1月)に次ぐ、本格的なこけし研究の文献で、この時代をこけし界では「天江・武井時代」と呼んでいる。写真も当時としては豊富に使っており、東の部に掲載されたこけしは鮮明ではないが、第1級の資料となっている。こけしは主として昭和2年2月より昭和7年12月まで集められ、特に昭和3、4年を本人は席巻獲得時代と称した。直接作者から入手した物の他、天江富弥、フヂヤ郷土玩具店、同好の趣味家等からのものが多かった。これらのこけしに画家として評価をにあたえたので、その評価は長らくその後蒐集家の指針となり定評となった。例えば盛岡煤孫茂吉のこけしを「白昼夢の華麗さ」、白布高湯佐藤慶治を「おかめ鸚哥のようで可愛い」、滝の原伊藤儀一郎を「断然日本一」等と評した。また反対に「ビリから数枚目」、「アクドさには一寸僻易する」、「セルロイドの様な下品さ」等の酷評もあった。
序に「古来玩具を持たぬ民族の等しく滅亡してゐる事実は東西共に幾多の実例が之を証してゐる。 ~ たかが『おもちゃ』の言葉を冠して軽蔑し最も好意を寄せたる少数の蒐集家さへ自ら『がらくた』と卑下して、単に蓄へてその雅趣を楽しむの範囲に停り、狭少な同趣味者仲間をおいては全く郷土玩具の何たるかさへ理解されず日本民族の成長と何等関係のないものゝ如くに忘却されて来たつた」と書いた。武井は郷土玩具全体を、「欧米と比べても、徳川時代から世界屈指の郷土玩具国であり、卓越した存在」と考えていた。我楽他宗の遊びではなく、童謡、童話、動画等と共に、童心芸術のなかに郷土玩具を位置付けようとしたようだ。その結果評価も厳しかったと言えよう。武井にとってこけしに係る事は本業で、決して遊びでは無かった。また刊行に当たっては、有坂与太郎、峰村慎吾、天江富弥が深く関わっていた。
下掲は、昭和14年4月の〈コレクション・25号〉の武井の寄稿。武井のコレクションは戦災で焼けたため残るこけし写真は少なく貴重な資料となった。この時「こけし管見」の記事があり、こけしはなぜ名玩なのかについて武井の意見が書かれている。
武井はその後童画等の本業が忙しく、こけしや郷土玩具には多く携わっては居ない様であるが、初期東京こけし会の発足に関わり、例会には自宅を提供したりしていた。
昭和14年9月発行の〈こけし・第3号〉に「白耳義へ行くこけし」として武井の記事がある。昭和14年11月にベルギーの首都ブラッセルで国際人形展が開かれるに際して和田英作画伯の提議で、日本の人形発達史を実物をもって体系づけて示すことになり、国宝級の凄いものが六十点もまとまって始めて海を渡ることになった。武井は「大人の翫賞する工芸美術品としての人形に限られ玩具という様なケチなものは除外される形勢にあったので、自分は子供党の立場として恩師和田先生には済まないが、母性愛に優れた日本紹介の意味から、童玩の参加を主張し、結局古代人形、現代人形作家の作品、郷土人形の3種目に決定を見て実行に移ったわけであった。郷土玩具は代表的と思われるもの二十名を選んで注文を発したが、実はその半数十名はこけしなのであった、 ~ 取敢えず十名に製作方を依頼した。高橋武蔵、菅原庄七、小椋久太郎、木村吉太郎、蔦作蔵、斉藤太治郎、小林栄蔵、渡邊幸九郎、阿部常吉、小島正 ~ みんな千載一遇の作品渡欧なので勇躍応召してくれたが ~ 」と書く。童画を主宰する武井らしい発言と、行動であったが、大戦を控え展示会は上手くいかなかったようである。
昭和15年から始まる「愛蔵こけし図譜」の製作は武井にとって10年ぶりの、本格的こけし界の復帰であった。「久しぶりに十余年前の事に筆を染めてみると当時の事がいろヽと想ひ出されます。こけし熱中時代は誠におかしなもので、新聞広告のこしけの薬を見ても情けない話だが、ハッと心惹かれたものでした」と書く。昭和16年3月解説文の〈こけし通信・1号〉に採録こけし工匠予定を載せるが、これに深澤要がかみつく。〈こけし通信・3号〉に深澤は「 ~ 塔に籠ってこけしを見つめて来た武井氏のこけしについての思い違ひに、多少の不安がないでもない。~ 武井氏がよく参考にしてをられるこけし文献は、多くの訂正を要する迄に進展してゐる今日である、作者の事歴、作品の発表には、特に留意されんことを会員の一人として御願ひする次第である」と書き、採録工人の名前、出身地などの間違いを記したのである。
これに石井眞之助、鹿間時夫、西田峯吉が反旗を翻す。鹿間は〈こけし通信・4号〉で「 ~ どうか充分武井色豊かな主観を発揮してください。こけしを何か戸籍台帳の標本みたいに扱う風潮からは断じて、此の芸術的仕事を守らねばなりません。作者の名前等どうだつて良しいでは御座いませんか。作者あってのこけしではなく、こけしあっての作者です ~ この図譜が名品の貴重な記録となります様、画伯始め当事者が雑音に煩はされぬ事を望みます」、西田峯吉は7号で「 ~ この図譜に対して、かゝる意味での、記録的効果を期待するといふことは果たして如何なものでせう。 ~ しからば、私共は美的効果をこそ期待すべきでないでせうか。敢えて何某のこけしであるべきだといふ理由はない筈です ~ 私共が観るものは、武井先生が直観によつて把握されたところのこけしの美の表現であります。 ~ どうか、私共が概ね見落とすであらう美しさ、私共が捉へ得ないであらう虞れある美しさの数々を思ひ切り味はしていたゞきたいのです」などと書いた。
しかし何より、深澤要の意見投稿に対して火が付いたのは、武井自身であったと思われる。武井は以降石井眞之助に対して、こけし工人名の確認を詳細に行ない、お互いに打ち合わせをしている。
それが石井宛に残された武井書簡である。ほとんど図入りで、作者について問い合わせ、石井は得意の手紙作戦で作者自身に照会を繰り返し疑問の解決に協力している。この過程で石井は古こけしの探索、阿部仙太郎の入手などもこなしている。
武井書簡、すべて石井眞之助宛ての〈愛蔵こけし図譜〉の作者等の相談 箕輪新一蔵
こうしたやりとりの中で、武井武雄が持っていなかった治助と直助は、石井眞之助より貸し出されて〈愛蔵こけし図譜〉の補遺に掲載された。
右:〈愛蔵こけし図譜・こけし通信3号〉に掲載した石井眞之助の寄稿に対するお礼状
中央:吾八今村秀太郎より、〈愛蔵こけし図譜〉遅延のハガキ
左:〈愛蔵こけし図譜〉の発送票
右:〈これくしょん・46〉左:〈これくしょん・49〉
左〈これくしょん・49〉の後書きでは今村秀太郎が苦労して(愛蔵こけし図譜)を上梓した経過が分かる。文中に「武井さんも大変に気にし、勉強もしておられるが」とある。
武井武雄のコレクションは池袋の「蛍の塔」に収蔵されていたが、残念ながら戦災で焼失した。
しかし武井は戦後も童画や玩具に関わる仕事や刊本の作成を続けた。武井の大きな業績となった刊本の中の12号に〈KOKESHI〉がある。昭和21年10月10日上梓され、著作・刊行武井武雄、擦刷上村益郎で伝承木版、私利非買と書かれている。刊本は武井がすべて管理した刊行で、転売を禁じ、その場には一度その全部を戻してもらい、新しい会員(親類)が引き継ぐといったルールであった。その結果限定会員以外の何人もが並び、我慢会と称していた。本の宝石と云われるだけあって〈KOKESHI〉も確かに手の込んだ美しい本である。
英文のこけしの説明があり、津軽から土湯迄のこけしの版画、10ページ50本が書かれ、産地の表示がある。この号だけ欲しいこけしマニアもおり、一時市場では極めて高値が付いたことも有った。
武井のこけし絵、色紙も有名で、戦前戦後を通じ、吾八から何回かにわたって多くが頒布された。その数はかなりあると思われ、未だに古書市場をにぎわしている。
〈コレクション・31号〉(昭和14年11月)武井武雄こけし絵幅の宣伝
武井武雄こけし三枚錦絵
武井武雄戦後最大のこけし作品 〈コレクション・77号〉(戦後版)の広告
武井武雄にとって描くのに描きやすいこけしと描きにくいこけしがあったようで、下記にはこけし絵を描くときの画家としての気持ちが、如実に書くかれている。
毎年新聞社や雑誌等が「歳末たすけあい運動―名士寄贈書画工芸作品展」などを企画していたが、武井も永年これに寄贈していた。例えば昭和57年9月に、毎日新聞社から57年度の依頼をしたところ武井から「長い間小さなお手伝いをしてきましたが小生も88才になりましたので歳末たすけあいを受ける方に廻ってもよいと思いますので今回は遠慮いたします」との武井らしいウイットと皮肉を込めた返事をした。色紙は昭和56年度の出品が最後となる。
ミニアチュールと称した、小額、茶掛け、小玩具などもデパートで販売されたことも有ったが、人気が高く一品もので入手困難であった。
イルフ童画館(長野県岡谷市中央町2-2-1)は、武井武雄の童画、版画、刊本作品等、モーリス・センダックの原画、一般の童画等も収集、展示している。イルフは武井の造語で、古い(フルイ)の反対で新しいという意味。新しい様式のおもちゃの創造をめざしていた。昭和4年に日本橋三越で開催された玩具展「イルフ・トイス展」のころからイルフという言葉を使い、創作玩具の運動を進めていった。武井がデザインした玩具や出版物を製作し、合格品にはRRRのサインが付けられていた。
〔参考〕
- 木人子閑話(1)武井武雄愛蔵こけし図譜
- COCHAE:武井武雄のこけし(平成24年2月)(パイインターナショナル)
- 武井三春:父の絵具箱(平成元年10月)(六興出版)
武井武雄の一人娘三春が、父の生涯を温かい目で記述している。この本の中に「郷土玩具を集めるのに父は遠くの土地へわざわざ旅行したことは一度もなかった。当時、本郷の通りに素晴らしい郷土玩具をいっぱいおいている古い店構えの家があって、夕方になると母と二人で出かけてゆき、そこで相当たくさん手に入れていた。 ~ 産地に手紙を出し、現物を送ってもらう手も、時どき使っていた。 ~ 特にこけしの場合、父流の妙案を考え出した。そのころ確かな地図と言えば陸軍参謀本部の地図であることに目を付け、これをたよりに東北地方の温泉マークのついている土地の役場あてに片っ端から、-そちらにこけしを作っている木地挽き職人がいたら紹介していただきたい。と返信用紙を同封した紹介状を送り、まだ広く知られていないこけしを見つけだしていた。」という記述もある。
本郷の店は「フヂヤ郷土玩具店」である。 - 武井武雄をあいする会
- イルフ童画館 年譜の掲載もある