東京市赤坂区青山南町5丁目8にあった郷土玩具店である。松下正影(正景、俳号は木景)が大正13年から昭和20年まで、片手間に経営していたが、東京大空襲で焼失した。
三五屋の宣伝ハガキ〈郷土玩具漫信〉を昭和7年8月~昭和12年4月まで36回にわたり発行していて、全国各地の郷土玩具を取り寄せ紹介、頒布をし、こけしもよく紹介される様になった。この他に古い玩具は松下が直接全国の産地、蒐集家から手に入れており、客である玩具人の力量や蒐集の方向などを見極め、簡単には売らなかった。今日では考えられない殿様商売であった。
〈郷土玩具漫信〉で頒布された作品は以下の通りである。
- 昭和8年5月 志戸平こけし(8寸余、代金60銭)、秋保、飯坂、白石、鎌先、土湯の5本の豆こけし(1組75銭)
- 昭和8年9月 福島こけし(30銭)、橘文策によるとこれは佐久間由吉のこけしとの事である。
- 昭和9年5月 蔵王高湯のこけし能登屋産(豆20銭、小25銭、中45銭、大60銭)
- 昭和10年3月 木地山こけし(尺1円20銭、8寸70銭)
- 昭和10年4月 秋田県川連小椋泰一郎(尺1円、8寸60銭、豆こけし)
- 昭和11年5月 青根、菊地考太郎、佐藤菊治のこけし(大50銭、中40銭、小30銭)
- 昭和11年10月 大山こけし(大1円20銭、中80銭、小60銭)
説明に「山形県大山町には二十年余前までコケシがあった。今も挽き物を業とするその頃の製作者が挽いた大山こけし。模様を忘れて仕舞ったので其近代化は惜しむべきだが珍しいコケシの一つである」とある。この作者岡村豊作は、この時以外ほとんどこけしは作らなかったようで、胴に胡粉を塗ったものと、そうでない作があり、確かに珍品である。この34号以降〈郷土玩具漫信〉はやがて中止されており、頒布は少なくなって、古品中心となる。
鹿間時夫は〈こけし鑑賞〉の中で、加藤滋のフヂヤ、佐野健吉の山三不二と同じように、客の方で売っていただき主人、松下は郷土玩具の先生であったと述べる。客をつかまえると話を楽しみ、時に毒舌となり、珍しい古玩を店の奥からとりだして、長講釈のうえ、簡単には売らなかった。
加藤文成は昭和5年以降しばしば三五屋を訪ね、推薦され出されたものをまず必ず買わされたが、「おもちゃを蒐めはじめた当時、こけしもそのほんの一部としてさして気にもとめず、只適当に蒐めて棚にならべておいたものだという。ほとんどのものが作者の署名は勿論、製作地も書いていないし、またそれが当時の習であった。その結果「誰の作だ」などと面倒なことになって、慌てて自分で名前を書き込んだものもあるし、今だに名前を書き込みようの無い物もある。」、また「もともと古玩は三五屋よりフヂヤのほうが多かった。しかし、昭和6年ころより三五屋のほうが優勢になった。」と言っていた。
加藤文成が発刊した五部作、順に嬰児藍、こけし這子、木ぼこ、小介子、こげすんぼこ(昭和59年11月~昭和61年6月、〈こけし雑俎〉として書肆ひやねから限定85部で復刊)には松下から買ったこけしについて、その思い出の記述がある。その記述によると、「佐藤文六は裏に及位の署名があり、松下がのぞきと仮名が振ってあった。」「岡村豊作のこけしは、松下から連絡があり、店に行くと7、8本のこけしがあり、そのうち3本が胡粉の塗っていないものであったので、松下の推薦でそれを購入した。」「樋渡治一は昭和6年に三五屋で入手したもので海水着をつけたようだと評された。」「渡辺幸治郎名義の渡邊幸九郎は、松下が名義を一切言わなかった。」「小椋千代五郎は日露戦争(?)の頃のものだから大切にしなさいと言われた。」「小倉嘉三郎のこけしは、当時三五屋の店に梅模様の物は何本もあり、求めようとしたところ ”まだヽ蒐めなければならないこけしがある。そうゆうものを蒐め終ったら予備として梅模様のものも蒐めてよいが、今急いでそんなものを蒐めるのは止めた方が良い。弥治郎本来のロクロ模様の方がよい” と云われて少し古くなっていたこのこけしを手にいれて来た。」「昭和の初め郷玩店三五屋で入手した木村吉太郎のこけしの底部に蝸牛の焼印を押したものがあった。これは明らかに一度誰かの所蔵になったものであるが、誰のものか今もって判らない。」等々である。加藤コレクションでこの他に〈こけし鑑賞〉掲載の佐藤春二は三五屋から、伝佐久間浅之助は山三不二(品川山三)からという。加藤は昭和20年の東京大空襲のあと、結び飯を持って三五屋に出掛けたが、焼け跡には累々たる土玩の山があったと述懐していた。
松下は、昭和7年4月から、有坂与太郎と郷土秘玩社を作り、〈郷土秘玩〉などの本を上梓した。〈郷土秘玩〉は1~5号まで発刊された。有坂の「聞かせたくない話」、萬場米吉、宮崎線外、木村仙秀による〈うなゐの友〉輪講等は、往時の玩具界の動きを伝えて貴重な資料といえる。遂明山荘による「温泉とコケシの旅」、青山良夜による「こけし吉備団子」(伊藤儀一郎の話)ほか、木村弦三、加藤武、濱島静波など当時の錚々たる玩具人の記事が掲載された。
昭和9年頃には、松下正影、川口貫一郎、加藤滋とよく東北にこけし行脚をしたようで、下掲のように鎌先温泉より三人連名で橘文策宛てに葉書(昭和9年6月18日消印)を送ったりしている。
松下正影から橘文策宛には昭和10年に一ノ関の新コケシ恵贈の御礼、昭和12年に〈こけし展望〉の御礼などいくつかの葉書が残っている。
松下正影は、また昭和12年1月より〈玩具句録―「囀」、4号から改題「影絵」〉を6冊作り、玩具の句などを中心に玩具界の出来事を収録している。
例えば夏の句会は「こけし 木景選」とあり、松下自身が選者となっている。また松下による「献上こけし顛末」の記事があり、この中で松下と有坂與太郎が袂を分かつこととなった一件についても記載されている。
〈囀ー改題―影絵:第4号〉(昭和12年7月)
6月の句会発表のページ、お題は、獅子頭(蝶兵衛選)
木馬(奇玩選)、こけし(木景選)、なお木景は松下正影
なお〈こけし手帖・第4号〉(昭和30年10月)に「こけし十題」として同じ句が選定されて掲載されている
〈こけし閑談記録〉正続2冊は昭和16年7月、12月、松下正影、溝口三郎、西田峯吉、土橋慶三4氏(続は金森遵が加わり5氏)のこけし四方山話である。
「こけしの性格、提案、言説縦横、談論風発、興趣の尽くる処を知らない。是を一場の雑談として忘失し去るには、いかにも惜しい気がするので、~ 」と書き、要点を松下がまとめた。目次は以下の通りである。
【正】こけし面相の特異性、須賀川こけし、こけしの頬紅、こけし蒐集家の態度、真髄は児童の玩具、コケシブローカ、こけし研究の別方面、熱塩春二のはなし、こけし行脚問答。
【続】こけしのろくろ模様、唐人ラッパ、ろくろの紫線、近代感覚の普遍性、土湯系こけし、胞吉のこけし、佐久間一家、新歩派と保守派、
この当時新らたに分かったこと、知られていない作者、新人工人の動向、それに伴うブローカーの存在、佐藤文助のロクロ模様と唐人笛の関係、胞吉の赤と黒の色彩、奥州紀行録、土湯名勝の栞など。また松下が佐久間由吉を訪ねたのは昭和8年であることなど、注目に値する記載が多い。この中で、今日定説になっている事象が数多く話し合われており、それは〈古計志加ゞ美〉の基本的論調になっているものが多い。
上掲下段の由吉のこけし絵の胴上部に、浅葱色の線1本が描かれる。下掲の〈古計志加ゞ美〉原色版において、同様に浅葱色の入ったこの様式の佐久間由吉を掲載し、その解説に昭和10年復活最初の作と書いている。〈続こけし閑談記録〉の記述には、松下正影が昭和8年に注文し、2年後に届いたとある。
なお、三五屋店主松下正影は元々大阪毎日の美術担当の記者で、陶磁器の専門家であった。疎開先の仙台で、昭和22年4月11日逝去した。