川崎巨泉

川崎巨泉

本名川崎末吉、明治10年6月2日に堺県 (現・堺市神明町御坊ノ前)に、川崎源平の三男として生まれた。父は堺の戸長(こちょう=明治時代前期に区・町・村に設置された行政事務の責任者)をしていた。兄は〈住吉・堺名所并ニ豪商案内記〉の著者川崎源太郎。
末吉は幼少より画才があり、明治25年、堺市甲斐町西六軒筋に住んでいた浮世絵師中井芳滝に師事したが、これは歌川豊春歌川豊国歌川国芳歌川芳梅中井芳滝━川崎巨泉と続く歌川派の流れである。号は人魚洞、芳斎、碧水居とも称した。明治29年芳滝の元を離れて東京で絵画を学ぶが、この時仮寓したのが日本画家奥村土牛の家だった。翌年帰阪し、大阪市南区鰻谷に移った芳滝方に寓居する。
明治31年芳滝の娘ハマ子と結婚、養子となって、芳滝の手掛けた仕事、新聞・雑誌の挿絵や連載物などを引き継いだ。大阪麦酒(現在のアサヒビール)との関係も引き継ぎ、明治36年大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会のパビリオンの冷蔵庫やビアホールの展示などを手掛けた。その後大阪市天王寺区逢坂上ノ町93に住んだ。
以降、明治36、7年頃より全国各地を旅して郷土玩具に関心を示し、多数の郷土玩具向け絵画を描いた。郷土玩具の特徴である素朴な美しさに着目し、多くの写生画を描く傍ら、ライフワークとして郷土玩具研究会などを主催した。また巨泉自身も関西の百貨店との関係は深く、大正8年に大阪三越で最初のおもちゃ絵展を開催した外、例えば大正12年3月京都大丸呉服店山形県物産展で買ったこけしをおもちや絵として書き残している。〈巨泉おもちゃ絵集〉(大正7年1月~大正8年8月)では、1本の飯坂こけしを書き、〈巨泉おもちゃ千種〉(大正9年10月~大正10年9月、)〈人魚〉(大正10年2月~昭和3年8月)、〈巨泉漫筆おもちゃ箱〉(大正13年1月)では山形、飯坂、鳴子のこけしを紹介、〈おもちや十二月〉(大正15年5月)、〈郷土の光〉(大正15年9月~昭和3年5月)、〈絵本おもちゃ集〉(昭和2年1月)、〈人形筆〉2冊(昭和4年1月・昭和4年4月)、〈土俗紋様集〉(昭和6年5月)、〈おもちや画譜〉(昭和7年9月~昭和10年10月)等々、昭和初期の郷土玩具界を席巻した活躍を見せた。
東京で三田平凡寺が組織した我楽他宗の関西版としてできた浪華趣味道楽宗には、巨泉は第十一番札所 碧水山虚僊寺、本尊は人魚とおしゃぶりとして加わっている。関西の趣味人の集まりである娯美会の会員でもあり、その名簿には川崎巨泉(末吉 画家:人魚)として掲載されている。

〈郷土の光〉


〈郷土の光〉大正15年9月~昭和3年5月(自序)


〈郷土の光〉に巨泉が描いた唯一のこけし図版 高勘のこけし

この様に専門誌を次々発行して多方向から郷土玩具を研究しが、その集めた5千以上の郷土玩具本体は残念ながら戦争で灰塵帰した。但し大阪府立中之島図書館には雅号の一つである人魚洞にちなんだ人魚洞文庫があり、未亡人から寄付された玩具帖全52号・巨泉玩具帖1巻1号~6巻10号までの全112冊の玩具絵画が所蔵されており、人魚洞文庫のページから”巨泉玩具帖”を検索して全てを見ることができる(詳細検索あるいは「件名」検索で見る、件名であれな「小芥子(こけし)」から、詳細検索であればそのページで何も入力せずにエンターをクリックすればすべてが見られる)。
この中に「鳴子町湯元桜井萬之丞作と云ふ、大正十年頃大鰐と云ひ入手せしもの 」という注記がついたこけし絵(クリックして見ることができる)一枚がある。当初は大鰐のこけしとして入手したものであったが、米浪庄弌の指摘で桜井万之丞作とわかったという意味である。そしてその下掲のこけしは、米浪庄弌の手に渡り、現在は鈴木康郎蔵となっている。

〔18.0cm(大正10年ころ)(鈴木康郎)〕
〔18.0cm(大正10年ころ)(鈴木康郎)〕川崎巨泉、米浪庄弌旧蔵


うなゐの友〉のこけしを模写したもの
伊藤蝠堂の「こけし」誌掲載 第8回於茂千也祭りに寄稿したもの

昭和10年の「愛玩家名鑑」(有坂与太郎編、建設社)によれば、明治34、5年頃友人から貰った木の葉猿や宮島の鹿猿を見て郷土玩具に興味を持ったという。「どちらかと云うと新し過ぎるものよりは古いものを好みます、新しい郷土玩具や、人形には何だか水臭いところがあって私の頭にピッタリと来ません」と記載している。ここから解るように、人形やこけしではなく、それ以外の動物や、生活用品などの玩具、動きのある独楽などを好んだらしい。

川崎巨泉の絵葉書(橘文策宛)

上掲橘文策宛ての絵葉書左側下には「(笛独楽)と木形子のならぶ おもちゃ棚」の句が書かれている。右側下は〈こけし異報〉と番付の送付を受けたことへの御礼。

「私の職業は絵師で御座います、習い覚えた浮世絵から現在の玩具書家となったのであります。今後浮世絵に戻るか、或いは玩具書家として、押通すか何とも判りません」という。
さらに昭和16年11月の〈竹とんぼ・3号〉に『こけし苦言』として、「聖線下に流行したものに不思議と云ふのはこけしがある。こけしと云う木人形は東北のみの産物として一種の誇りとしてゐたものではあるが、実は温泉場土産の低級なものであって別に是と云う芸術家の作ったものでないことは勿論、挽物職人の本職の余暇に小費どりに作って店先にならべて置いて土産として売ってゐたものである。~ 顔の描方がどうの、胴の模様の絵付けがどうのと深い詮索や研究までして褒めちぎる程のものでもない。今では故人の作品だなどと数十円に売買されてゐるものも、以前は玩具取次店の棚の隅の方や、店頭のこはれものゝ木箱のなかに、首の取れた人形や車のない雉子車と共に投げこんであったもので、十銭か二十銭も出せばいくらでも手に入った時代もあったが、今のやうに蒐集家が高値に求めてくれる事など判ってゐたれば、其当時に木地代で買って納屋の隅へでもかくして置いたら或るいはコケシ成金になれたかも知れぬと思ってゐる。~こけしと云う奴、可愛いらしい木人形ではあるが現今其の一部の人々の云う如く決して国宝じみた取扱ひまですべきものではない」(原文ママ)と嘆く。但し晩年まで郷土玩具への愛情は深く、特に動物関係のおもちやをこよなく愛していた。
この時期郷土玩具の世界は、極端に言えば、おもちゃ派とこけし派で大きく揺れていたといえよう。おもちゃ派は川崎巨泉、有坂与太郎などのグループ、これに対してこけし派は川口貫一郎、天江富弥等のグループである。但し両グループが対立していた訳ではなく、元々郷土玩具全体を集めていたが、第1次こけしブームでその比重に違いが生じたと云えよう。
川口貫一郎は〈竹とんぼ・10号〉で「こけしの辯」として「かくも難しく作者迄も掘り下げていったこけし。郷土玩具中には其の類例はないであろう事は我々の罪である。斯くまでも掘り下げる要はなかったのではあるまいか、然しこれも此の時節なのだから勘弁していただきたいものである。今となっては尚一層掘り下げたくなる。こけし蒐集家の悪い癖かも知れない」と弁解する。
〈竹とんぼ・9号〉で、土橋慶三は「昭和17年こけし界展望」で、「近頃のこけしは高すぎる 高過ぎれば買ふな 然しこけしは売れてゆく」と嘯く。
〈鯛車・69号〉(昭和18年9月)に、日本民族玩具協会の有坂與太郎は「昭和18年度こけし製作者ベストテンについて」と題し「こけし製作者ベストテンは本年で二回目になるが、本年は採点者が僅かに二人と云う頼りなさである。一体、こうした現象はどう云ふところに起因してゐるのだらうか。~笑われるのはイヤだと云う人もあろうし、最近の作品を知らないから採点が出来ないと云う人もあろうが、これはどっちにしても無責任極まる問題だと思う。こう云う人達はこけしを本当に愛してゐるのかどうかさへも疑わしい。一般民玩よりその愛好者は深く鋭いと云はれ、自らもまたしかく任じてゐながら、而もなおこれである。~もし、こけしが滅ぶとしたら、それは現実を侮辱する愛好者の罪だと云って、私は決して詭弁だと考えてゐない」(原文ママ) どちらかと云えばこけし派でない有坂氏の痛烈な感想が載っている。
いずれにしても巨泉翁の玩具絵は、郷玩界から圧倒的支持を受け、多くの愛好家がいたことは確かである。
昭和17年9月15日没、行年66歳。同17日に大阪阿倍野葬儀場で告別式が行われた。東京では、同16日、日本民族玩具協会主催で、巨泉忌として麹町区永田町2-57(日枝神社境内)山の茶屋で追善供養が行われた。また昭和17年11月15日 大阪さくら寺で、川崎巨泉追悼法要が行われたという。なお巨泉の墓所は、堺市南旅篭町東4-1-1の臨済宗大安寺であり、大阪さくら寺の所在は不明である。
〈竹とんぼ・9号〉では巨泉逝去に対して、加山可山の献句「おもちやたゞ 残り秋の灯 冷やかに」を載せた。 

〔参考〕

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