田中緑紅

大正から昭和にかけての京都の郷土史家。明治24年1月12日に生まれた。本名は田中俊次。父親は医師で、孤児院平安徳義会を開き、児童福祉事業の先駆者として、また社会事業家として知られる田中泰輔。緑紅は医学の道には進まず、京都市堺町の緑紅花園で花造りを行っていたが、染織工芸研究家の明石国助(明石染人)に教えられて民俗学、郷土史の研究に情熱を傾けるようになったという。

田中緑紅

大正6年、郷土趣味社を創立し、雑誌「郷土趣味」を発行、その会員は大正13年の名簿で186名であった。その中には、斉藤昌三、川崎巨泉、尾崎清次、明石染人(明石国助)、杉浦丘園、木戸忠太郎(木戸孝允の養子)、宮脇楳僊楳僊(新兵衛)などもいた。またその執筆陣の中には折口信夫、中山太郎、南方熊楠などの名もある。また緑紅は「我楽他宗」の会員でもあった。「我楽他宗」では、桃太郎に関する物の蒐集家として記載されている。
書店「ちどりや」を開き、土俗、考古、傳説、風俗に関した書籍類を並べたらしい。雑誌〈鳩笛〉(全6冊)を編纂した。水戸忠太郎、有坂与太郎、杉浦丘園、田中緑、猪野多毛師、村西柳舟、川崎巨泉、淡島寒月、斎藤昌三、吉村由太郎、木村芳太郎らが寄稿した。

田中緑紅

緑紅はこけしにはあまり関心を抱いていなかったが、こけしに関わる貴重な記述はいくつかある。
〈鳩笛〉創刊号には大正期にこけしを盛んに扱った筒井郷玩店について田中緑紅は次のように書いている。
「道頓堀南詰東角の百円から家賃のとれる角家の立派な場所を、利害を少しも見ないで、ただ蒐集に夢中になって多額の費用を投じて羨ましい程珍しいものを並べた店とされました。僅かな年数でしたが、どこ迄も売る一方でなく、あく迄趣味を持って扱っていた」


鳩笛創刊号(大正14年3月)

田中はさらに大正12年以降も度々「つゝゐ(筒井郷玩店)」の紹介をする。〈郷土趣味・41号〉には「大阪一の繁華な道頓堀の五座の絵看板に見とれた處で二ッ井戸の方へ行くと境筋の電車道日本橋の南詰東北角に美しい小ぢんまりとしたみせ、それは筒井君のお楽しみ諸国のおもちやの数々 ~ 柳家、べにや、吾八と大阪のおもちや党の根拠地をなくした今日 ~ 本社も及ばずながら後援する事になりましたからお通りがけはぜひ一度見もし聞きもし買もしにお立ち寄りを願います—と緑紅ご披露をいたします」(原文ママ)とある。 

つつゐ

また〈郷土趣味・36号〉(大正11年12月)には田中緑紅の「奥州土俗めぐり」の記事があって、東北6県をほとんど回った大旅行の見聞録となっているが、こけしの大産地でもあまり興味がなく、こけしに触れているのはわずか温海温泉だけである。「温泉地には何処にもある木地玩具屋が此処にも二軒あって各種の玩具がつくられてゐるが、吾々の目についたのはコケシボーコとコマ丈であった、主人はコケシボーコとは云わないで名は有りませんと云ってゐた ~ 」(原文ママ)多分生前の阿部常松に会った数少ない一人であろう。またもう一件の木地屋は不明、本間留五郎が温海で木地を挽くのは昭和に入ってからである。〈郷土趣味〉誌全体でもこけし関連の記載が在るのは多分ここだけであろう。


「郷土趣味 36号」唯一温海温泉のコケシの記事のある号

また戦後は「京を語る会」を発足させ主宰した。ここを活動拠点として無料の講演活動等を行い、一連の著作物を「緑紅叢書」として刊行した。明治初期や中期頃の伝承と、写真や図版をふんだんに収めた叢書で、1300ほどの今昔の逸話を収めた作品集である。
京都府風致審議会委員もつとめた。
昭和44年4月22日没、行年79歳。

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