河本紫香

関西の趣味人。浪華趣味道楽宗、娯美会、やつで会などのメンバー。
明治16年3月兵庫の菅原長七の四男彦太郎として生まれた。明治31年に先代の河本正次の養子となり、大正9年に家督を継いで養父の名の正次(まさつぐ)を襲名した。傘商を営んだ。
大正8年頃に始まった浪華趣味道楽宗や、その中の気の合った仲間達の娯美会ややつで会にも加わった。やつで会には郷玩やこけし好きの九人(西田亀楽洞、村松百兎庵、梅谷紫翠、鹽山可圭、粕井豊誠、中西竹山、芳本蔵多楼、青山一歩人、河本紫香)が集まって始めた会。河本は娯美会では蒐集対象を「伝説玩具の牛」としていた。牛を蒐集対象としたため堂号を「牛の舎」とした。

河本紫香

橘文策が土湯の斎藤太治郎を訪ねた時、河本紫紅からの注文状を見せられたのが、橘と河本の交流の契機となった。橘が控えてきた河本の住所から文通交際が始まり、そして橘がやつで会や大阪のおもちゃ人川崎巨泉らを知ることになる。橘文策は大阪にそれほど多くの愛好家がいることに驚き、自分もこけしの頒布会をやってみようと始めたのが木形子洞頒布である。川崎巨泉が持っていた全国郷土玩具愛好者名簿が、木形子洞頒布の開始に役に立ったという。


紫香蔵版の寶船図

関西の趣味人たちは2月3日の節分の日に互いに宝船の絵を交換する風習があった。また大阪には昭和3年から昭和11年にかけて「浪華宝船会」という組織もあった。昭和7年の「浪華宝船会」資料(乙三洞発行)には、「浪華寶船會 寶船授与所畧図」があり、そこに指定された場所で、宝船図の交換ができたらしい。この時の幹事は、木村旦水、林家染丸、川崎巨泉、梅谷紫翠などであった。

[`evernote` not found]