高山良吉(たかやまりょうきち:1889~1975)
系統:鳴子系
師匠:秋山忠
弟子:
〔人物〕明治22年5月7日、秋田県雄勝郡駒形村字仙道に生まれた。13歳で川連の七山家に奉公に出たが、やがて技術を身に付けることを志すようになった。大正元年年7月、鳴子で木地修業をしていた同郷の高橋卯一を頼って鳴子に行き、秋山忠に弟子入りした。約2年間木地を修業した。兄弟弟子には、有路三蔵、伊藤養吉が知られている。大正3年旧8月、川連に戻って大館の阿部平左衛門の水車挽工場の職人となり、余暇にはこけしも挽いた。大正5年に漆器商藤原万之助の抱え木地師となったが、万之助は漆器商とともに近在の温泉場で土産物店販売もしていたので、良吉は木地玩具やこけしも作った。しかし、大正7年に木地挽きをやめて、川連で塗物商人となったので、以後こけしの製作は行わなくなった。
昭和42年、秋田魅新報に郷土史家の伊藤雅義が紹介し、昭和43年には秋山忠市の木地に少数描彩した。
良吉の詳報は深瀬秀氏により〈大阪教室だより〉に掲載されている。
また伊藤雅義は〈こけしのふるさと〉においても高山良吉に触れている。
昭和50年4月7日没、行年数え年87歳。
〔作品〕昭和43年に、伊藤雅義と阿部平四郎が相談し、「昔作ったのであれば描彩は出来るだろう」と、鳴子から秋山忠の息子忠市の木地を取り寄せ、折から訪問中であった大阪の蒐集家深瀬秀と共に絵筆を準備して、高山良吉に描彩を依頼した。下掲がそのこけしである。
鳴子の様式はきちんと残しており、一時期こけし製作を行っていたことは確かであろう。
〔23.8cm(昭和43年12月)(阿部平四郎)〕木地は秋山忠市
〔伝統〕鳴子系
〔参考〕
- 伊藤雅義:「木地山こけしと川連こけし」〈こけしのふるさと〉(昭和47年3月 未来社)