及川正夫

及川正夫(おいかわまさお:1918~2007)

系統:鳴子系

師匠:仙台職業工芸所

弟子:

〔人物〕大正7年5月13日、岩手県一関市大東町曽慶角北48番地の農業佐藤安治、チトセの三男として生まれた。盛岡市の旧渋民尋常小学校を卒業後に親戚の及川林蔵を頼り鳴子に移った。生まれつき胃腸が弱く、湯治を行いながら林蔵の下で鳴子漆器の漆塗りの修業を始めた。コツコツと真面目に働き、鳴子でも指折りの塗師として成長し、昭和18年に跡取り娘の及川あい子の入婿となり経営にも携わるようになった。塗師時代には皇室の御料車の塗装にも関わり、この作業に宮城県で唯一指名を受けた事を誇りとした。結婚後、間もなく徴集となり、中国への出兵となった。この戦争体験は人生に取り組む姿勢に影響を与えることになった。昭和21年帰還後は、自ら扱う品質の更なる向上を目指して、分業制が常識の鳴子漆器業では珍しい一貫工場木地工場の併設に踏み切った。材料の手配は全て正夫が行い、木地挽きは弟子や職人に作らせ、塗りは正夫が行った。さらに昭和22年には、自ら仙台の職業工芸所に通い木地挽きを会得し、この頃から自挽木地に漆で描彩したこけしを作り店に並べるようになった。また昭和25年に山形県新庄市から斎藤久弥を招き、また佐藤俊雄に漆器木地を学ばせた。こけしの描彩については、昭和29年より佐藤俊雄を大沼新兵衛の弟子として習得させた。佐藤俊雄は同じ岩手県大東町の出身で親戚だったので、目を掛けて世話をし、漆器の塗りに関しては正夫が直接指導した。
昭和30年頃からは、漆の食器以外に漆塗りのステレオ脚や、ミシンの脚に敷く漆塗りの下敷き、こけし等の注文が多くなり、及川工場では多くの職人を育成したので、鳴子木地業、漆器業発展にかなりの貢献があった。こけし工人としても、大沼健三郎、健伍、秋山忠三郎、佐藤俊雄、高野淑夫、鉄本友三、渋谷安治、高橋いと子が及川工場で働いていた。大沼健三郎親子以外は短期間で転業しているので製作本数が少なく、中古市場に殆ど出てこないので稀少なこけしとなっている。
尚、工場は昭和41年6月に火災がおこり、そのため閉鎖されることになった。正夫は平成19年5月14日90歳で亡くなった。


及川正夫、あい子夫妻(平成6年9月5日)
於:ホテル・オニコウベ にて

〔作品〕及川正夫と署名のあるこけしはあるが数は少ない。後年になると描彩は妻女のあい子が行い、正夫名義で店に並べられたという。
下掲二本は及川正夫名義のこけし。木地は佐藤俊雄、描彩は及川あい子であろう。


〔右より18.4cm(昭和31年)、29.5cm(昭和40年頃)(中根巌)

 〔伝統〕鳴子系共通型

〔参考〕

木地工場休止後も及川漆器店は営業を続けており、大沼健三郎の昭和31年頃の古風な作品が安価で何本も並べられていた。下掲は昭和42年に及川商店で1本200円で求めた大沼健三郎のこけし。


〔大沼健三郎 右より 17.7cm、17.5cm(昭和31年)(橋本正明)〕

〔参考〕

  • 高井佐寿:及川正夫のこけしと菊池清造の切り絵こけし〈木でこ・207〉(平成27年1月)
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